正信偈のお話 ~8~ (超発希有大弘誓)

どんな夢でも持たないことには、はじまらない

超 発 希 有 大 弘 誓

阿弥陀様はどんな人でも必ず救うといった果てしない目標を立てました。プロサッカー選手の本田圭佑さんは皆さんご存知だと思います。本田さんは卒業文集で世界最高峰のリーグで活躍するという夢を残していて、Jリーグに入ってからも「ビックマウス」と言われるほど、大きな目標を口にしてきました。「そんなこと出来るはずがない」と言う人も多いですが、大きな目標に対して練習して結果を残してきました。大きな夢を、笑われるかもと思い周囲に口にしないことは逃げ道を残しているだけなのかもしれません。

正信偈のお話 ~7~ (建立無上殊勝願)

夢は大きくもって実現させよう

建 立 無 上 殊 勝 願

子供のころの夢といえば、「プロ野球選手」や「お医者さん」が定番です。でも、大きくなればなるほど大きな夢を持っていても「そんなのできっこない」と笑われるのが嫌だったり、才能が無いと思って諦めたりしてしまうのです。しかし阿弥陀様は違っていて、その夢はすべての人、他の仏様でも救えないような人でも救える仏様になるという壮大なもので、そうでなければ仏様にならないとまで決意されました。野球でいえば全打席ホームランを打てなければプロ野球にならないと言っているようなものなのですが、それを成し遂げたのが阿弥陀様なのです。 http://zuiganji-suzuka.sub.jp/

正信偈のお話 ~6~ (国土人天之善悪)

自分のまわりをよく見てみよう

国 土 人 天 之 善 悪

私たちは普段の生活で周りを見ているようで、見ていないのです。疑う力は成長する力と言ったりします。今は常識になっている手洗い消毒ですが、19世紀までは全く普及していませんでした。“消毒の父“ことゼンメルワイス医師が手洗いの大切さを当時は反対されながらも後の私たちに残してくれたのです。私たちは年上の人、上司、先輩などをただただ鵜呑みにしてしまうことが多いでしょう。阿弥陀様は、他の仏様やこの世界の人たちの行いをしっかりと見て、過去の前例にとらわれず、どのようにしたら私たちを救えるのかを考えてくれたのです。

正信偈のお話 ~5~ (覩見諸仏浄土因)

成功した人をもう一度みてみよう

覩 見 諸 仏 浄 土 因

先輩を倣うのは大切なのでしょう。千里の道も一歩からといいますが、どんな凄い人でもスタートはあったわけです。歴代の数学者も数字を覚えてすぐに微分積分ができるはずもありません。千利休も「守りつくして 破るとも 離るるとても 本を忘るな」と残したように、まずは基礎・基本をしっかりさせてから自分なりのやり方を見つけるべきなのでしょう。そして、上手く行かずに悩んだときも、基本に戻ることで解決策が見つかることも多いでしょう。阿弥陀様も他の様々な仏様の有り様、私達の救い方を見てから、ご自身の道を見つけられたのです。

 

正信偈のお話 ~4~ (在世自在王仏所)

先生の先生がいたから私達の先生なったのです

在 世 自 在 王 仏 所

「青は藍より出でて藍より青し」ということわざがありますが、藍という草からとれる青色の染料はもとの藍の草より青いというところから来ています。弟子でも師匠を超えられるという意味あいのことわざになります。弟子は師匠を超えられても師匠がいたからこそ、それだけの人になれた訳です。また藍の草からは取れるのは赤でも、黄色でもなく青色なので必ず師匠の面影は弟子に残ることになります。私たちが先生、先輩、上司を超えたと思うときも、慢心を持ってはいけません。私達のどこかには面影が残っているのですから。

正信偈のお話 ~3~ (法蔵菩薩因位時)

先生もむかしは生徒だった

法 蔵 菩 薩 因 位 時

阿弥陀様も生まれた時から仏様ではありませんでした。阿弥陀様は法蔵菩薩というお名前で修行されていました。私たちも学生だった時があったと思います。子供だったころは先生は何でもできる、すごい人だなと思ったものだと思います。しかし、大人になって親や先輩として教える立場になると教える側がいかに大変か分かるようになりました。教わる側も十人十色なので、完璧な教え方は無い中で色々と工夫しなければならないのです。そう思うと学生だったころは沢山、先生を困らせたと後悔します。でも、阿弥陀様はそんな困った生徒でも受け入れようとしてくださるのです。

正信偈のお話 ~2~ (南無不可思議光)

すごい人を頼りたい

南 無 不 可 思 議 光

プロ野球は観戦しますか。私自身は阪神タイガースのファンなのですが、自分が応援している球団に新しい外国人選手が入ってくるとワクワクしませんか。特に現役のメジャーリーガーで、すごい成績を残している人だとなおさらです。そして期待以上に活躍して、好きなチームを優勝させてくれたりすると仏様のように崇めるのです。お念仏の南無阿弥陀仏の南無はもともとインドの言葉で相手への信頼を表しています。そして阿弥陀様はメジャーリーグのスーパー選手のようなもので、必ず結果を残してくださるのです。そんな阿弥陀様を信頼したくなるのは当たり前なのです。

正信偈のお話 ~1~ (帰命無量寿如来)

頼れる人がいつもいてくれる

帰 命 無 量 寿 如 来

私の父や母はまだまだ現役で住職や坊守をしています。しかし、多くの場合は子供より早く親のほうが亡くなってしまいます。しかし、私達真宗門徒が親さまとして頼りにする阿弥陀様には寿命というものはありません。なのでどんな時代の人でも阿弥陀様を頼りにすることができるのです。また、この世界でたとえ親が亡くなっても他に頼りにできる人を見つけることは生きていく上で大切でしょう。それは配偶者であり、子供であり、近所の人でもあると思います。頼りにする人はそれぞれ違いますが私達は決して一人ぼっちではないのです。

 

 

信心というのは 凡夫が仏さまと同じ命を共有するという出来事(2021年法語カレンダー6月)

信心というのは 凡夫が仏さまと同じ命を共有するという出来事

人と機械の違いは「いのち」があるかないかで区別されますが「いのち」とはなんでしょうか。心臓の鼓動や成長も「いのち」の定義の一つでしょうが、なにより「心」があるかないかではないでしょうか。今の時代は人工頭脳などが発達してきて、人とよく似た思考ができるロボットも開発されていますが、それは心を持っているとは言えないのでしょう。また、「心の無い仕事をするな」と言われたりもしますが、同じ仕事でも「心を込めて」した仕事には何かしらの違いが出てくると思います。

正信偈には

往 還 回 向 由 他 力

正 定 之 因 唯 信 心

という箇所があります。ここでは「私たちが救われるのは阿弥陀様のお力であり、そのためにはただ信心を持つしかない」ということが残されていると思います。信心とは阿弥陀様のお力ををただただ疑いなく信じられるということです。そして、その結果が無意識に口から出てくる南無阿弥陀仏のお念仏なのでしょう。私達は毎日のお勤めの中で何度もお念仏をしていると思います。しかし、このお念仏にも気持ちが入っていなければこれほど勿体ないことはないでしょう。気持ちの入っていないお念仏はただ機械でCDを再生しているようなもので、そのお念仏には「いのち」はないと思います。「いのち」のある、心のこもったお念仏は必ず阿弥陀様にも伝わると思います。

「信心というのは 凡夫が仏さまと同じ命を共有するという出来事」

が今月の法語になります。こんな凡夫の私達でも、こころのこもった、信心のあるお念仏であれば阿弥陀様とその気持ちを共有することができると思います。

 

 

己れに願いはなくとも 願いをかけられた身だ(2021年法語カレンダー5月)

己れに願いはなくとも 願いをかけられた身だ

平等心をうるときを 一子地となづけたり
一子地は仏性なり 安養にいたりてさとるべし

と親鸞聖人は浄土和讃に残されました。阿弥陀様はいつも私達のことを平等に見てくださっていて、自身の子供のように愛してくださっている、そしてその愛は私達たちが望まないときでも、気づかないときでも私達に向けられているのです。実際に私達も自分が親になってみると、子供に対する愛情は特別なものであると実感するのではないでしょうか。また、自分が今まで成長する過程で親から愛をたくさんもらっていたんだととも気付かされる機会にもなると思います。
歌手の美輪明宏の言葉で「恋とは自分本位なもの、愛とは相手本位なもの」というのがあって、私自身とても心に残っています。どんな人でも恋から始まると思いますが、最初はかっこいい人や可愛い子と一緒にいたいと思って恋は始まるのでしょう。そのためにお洒落をしたり、プレゼントをあげたりするのです。そんなときは相手のためになるようなことをしていても、結局は自分の欲望のために行動していることが多いのではないでしょうか。もしそれが本当に相手のためになることを、自分を犠牲にして行えるようになればそれは愛と言えるのではないでしょうか。でもそんな相手への愛は実は見えない、気づかれないことも多いのです。愛であれば相手が幸せならそれで満足できるはずですが恋ならそうはいきません。なぜなら、相手に気づいてもらう、自分を評価してもらうことを目的としているからです。
ここで今月の法語の紹介ですが、「己れに願いはなくとも 願いをかけられた身だ」という言葉です。まさに阿弥陀様の私たちを救いたいと思う気持ちは恋ではなく愛の気持ちなのでしょう。阿弥陀様の願いは私たちすべてがお浄土に新たに生まれるということなのですから。