正信偈のお話 ~50~ (為衆告命南天竺)

【「生きた証を残したい!」「もう残っているから大丈夫」】
為衆告命南天竺
動物は本能的に自分の遺伝子を残すように行動するそうです。強いオスがメスと結ばれるのはそのためですし、魚だと子供同士が共食いをして一番大きい子供が生き残るものもいます。私たち人間は、子孫を残すことに動物ほど執着はしていません。そのかわりに、自分が生きてきた功績を残そうと必死になります。でもそんなことしなくても私たちは普通に生きているだけで、生きている証を残しているのです。それは毎日毎日のちょっとした人の繋がりや目に見えないつながりがあるからです。私たちは誰かの「おかげ様」で生きることができますし、誰かの「おかげ様」になっているのです。

正信偈のお話 ~48~ (明如来本誓応機)

【しっくりくる、私達にお念仏】
明如来本誓応機
ものごとが違和感なく収まることを「しっくりくる」といいます。海外旅行はいつも人気で、お盆やお正月といったまとまった休みが取れると空港は大混雑します。しかし、あれほど楽しみにしていた現地の食事も最初の数日は楽しめても、最終日くらいになると白米やお味噌汁が恋しくなってきます。やっぱり「好き、楽しい」と思うことと「安心できる」ことは違っているのでしょう。私達は悩みを晴らすために自力での悟りを求め、ときには修行を行って悩みが晴れたように感じます。しかしすぐに新しい悩みが湧いて出てくるのです。そんな私達にこそ阿弥陀様の他力のお救いこそが安心感につながり、「しっくりくる」のだと思います。

正信偈のお話 ~47~ (顕大聖興世正意)

【英雄か極悪人かは立場によって変わる】
顕大聖興世正意
ナポレオンといえばフランス革命後にヨーロッパ各地を支配下におき、フランスに繁栄をもたらしました。ただ、これはフランス以外の国からすればナポレオンは侵略者という立場になるのでしょう。またナポレオンは軍人でもあり、政治家でもあったのです。これもどの角度から見るかによって変わってくるのです。普段の私たちも他人を見るときに、周りの噂や先入観で見てしまいますし、自分の目線でしか見れないことも多いのです。お釈迦さまについても、歴史の授業で習う内容を思い出す人も多いでしょうが、私たちの信仰の中でのお釈迦さまはちょっと違った存在になるかもしれません。

正信偈のお話 ~46~ (中夏日域之高僧)

【心は作られて成長する。】
中夏日域之高僧
味ご飯といって皆さんには通じますか。他の地方では炊き込みご飯というのですが、三重県では味ご飯といいます。私も進学を機に、三重県を出るまでは当然と思っていました。それは周りの人がその言葉を使っているからです。私達の心の多くは周りの人たちによって形作られているのです。インドで生まれた仏教は、中国では曇鸞さん、道綽さん、善導さんに、日本では源信さん、源空さんによって親鸞さんにまで伝わり、浄土真宗という形になりました。私達の真宗門徒はこれらの偉大なお坊さんがいたからこそ、普段から南無阿弥陀佛のお念仏ができるのです。

正信偈のお話 ~45~ (印度西天之論家)

【みんな、もともとは一つの細胞だった。】
印度西天之論家
私達は今は大きな体をしていますが、もともとは受精卵という1ミリにも満たないたった一つの細胞だったのです。これが分裂を繰り返し、その途中でそれぞれの役割の細胞に変わり、今の私達になっているのです。受精卵でも遺伝子は99.9%以上は一緒なのに、その僅かな違いや心の成長の違いが私達の個性を作り出しているのです。仏教も浄土真宗だけでも十派もありますし、仏教系と言われる宗教も合わせればその数は星の数ほどあるでしょう。それでもルーツはお釈迦様であり、今のインドという国なのでしょう。

正信偈のお話 ~43~ (信楽受持甚以難)

【逆さにしてあるコップに水は注げない】
信楽受持甚以難
たとえ見えなくてもコップの水の中に埃が入っているのは嫌な気分でしょう。そのため洗い終わったコップは伏せて食器棚の中にしまいます。これは食器棚の中で埃がコップの中に入らないようにするためでしょう。それでもそのコップに水を注ぐためには、上に向けなければいけません。そして僅かな時間ですがその間はコップの中に埃が入ってしまいます。また水を注いだ後にラップをしていたら飲めるはずもありません。私たちも阿弥陀様に助けてほしいと願うのですが、助けてもらうことを邪魔をする多くのものが私たち自身から漏れ出しているのです。

正信偈のお話 ~42~ (邪見憍慢悪衆生)

【罪を罪と感じないことは最大の罪】
邪見憍慢悪衆生
「他人のものを取ってはいけません」と覚えたのはいつなのでしょうか。「赤信号を無視してはいけません」と覚えたのはいつでしょうか。多分親御さんから教わったと思いますが、駄目なことだからしてはいけないと覚えたから、それを守っているのです。でも、これは動物としてただただ生きていくためにはマイナスでしかないのです。野生では、他人の食べ物でも食べなくてはいけませんし、車にひかれないのなら赤信号でも渡ったほうが早く目的地に辿り着けます。目の前に食べ物があっても、それが他人のものなら空腹に耐えるか、奪い取って罪の意識を負うか、その苦しみを味わえるのが私たちが人間である証拠なのでしょう。

正信偈のお話 ~41~ (弥陀仏本願念仏)

【逆境でこそ、「自分の基本」に立ち返れ】
弥陀仏本願念仏
これはサッカー日本代表の森保 一(もりやす はじめ)さんが残した言葉です。「苦しい時の神頼み」とはいいますが、これは困ったときにだけ普段は信じていない仏様や神様を信じるといった意味で、あまりいいことではないとされます。苦しいときこそもう一度自分自身を、そして経験、努力を振り返ることがその苦しみを脱する方法であるという森保さんの言葉はとても心に響きます。もちろん阿弥陀様はこの世界で苦しんでいる私たちを救ってくださいますが、困ったときの上辺だけのお念仏ではこれほど寂しいことはないでしょう。なので、上辺だけのお念仏にならないよう、普段の困っていないとき、「基本の」お念仏が大切なのでしょう。

正信偈のお話 ~40~ (是人名分陀利華)

【白い蓮みたいな人、最高の誉め言葉】
是人名分陀利華
「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」 という女性への誉め言葉があります。この言葉は見た目以外にも、立ち振る舞いも含めての誉め言葉なのでしょう。他にも「大和撫子」という誉め言葉もあります。こちらは美しさもそうですが、日本人の「ひたむき、芯が強い、明るい、礼儀正しい」といった内面の強さも含めて使われることが多いと思います。では「白い蓮のようだ」と言われたらどうでしょうか。仏教に詳しい人ならわかるでしょうが、白蓮は蓮の中でも最も高貴なもので、「信心を持った、お念仏を大切にする人」という意味合いがあるのです。もしあなたが白蓮に例えられたら最高の誉め言葉なのでしょう。

正信偈のお話 ~39~ (仏言広大勝解者)

【分かった、判った、解った さぁどれでしょう。】
仏言広大勝解者
同じ発音で、よく似た意味の言葉の使い分けはとても難しいです。分別の「分かる」が一般的によく使い、「分かった」は返事にも近い使い方をして、気持ちの上での「わかった」なのでしょう。そして判断の「判った」は物事の区別がついたときに使う「わかった」です。最後に解釈の「解った」は物事を理解したときに使う「わかった」です。例えば、お仏壇のお給仕の仕方が「分かる」、仏教とキリスト教の違いが「判る」、他力本願の教えが「解る」といった使い方なのでしょう。では、「自分にとってお念仏の大切さがわかりますか」と聞かれたときには、あなたはどの「わかった」で答えますか?