如来さまより最も遠い身が 実は最も近い身でありました(2021年法語カレンダー4月)

如来さまより最も遠い身が 実は最も近い身でありました

とある予備校講師さんは「志望校さえ決まれば自分がどれだけ馬鹿か分かってくる、でも後は簡単に合格できる」と常々言っているそうです。受験生を勇気づけるために言っているのではなく、本当にそう思っているそうです。その先生曰く「目標が決まれば、合格までどれほど学力が必要かも分かるし、また自分の立ち位置も分かる。そして何より勉強をするやる気がグングン出てくる」と言った具合です。よく似た話は中国の孫子の名言「彼を知り己を知れば百戦殆(あやう)からず」にも出てきます。どんな戦であっても、敵と自分をしっかりと理解していれば負けることはないという内容です。今月の法語ですが「如来さまより最も遠い身が 実は最も近い身でありました」です。浄土真宗にそれほど縁がない方でも、「悪人正機説」という言葉は一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。この「悪人正機説」という言葉は中学校の歴史の教科書でも親鸞聖人の説明で出てきます。これは悪人でも救われる、ということではなく、悪人こそが救われることを意味しています。ここで最初の予備校の先生のお話に戻れば、志望校を決めることは「阿弥陀様のお力で極楽に生まれたい」と決めること、そして合格のために勉強することはお念仏することであり、お聴聞することです。そして、自身のレベルを自覚することが自分を悪人、凡夫であると理解することなのでしょう。親鸞聖人も「凡夫はすなわちわれらなり」と残されました。私達は自身がまずは悪人だと理解することが何よりのスタートになるのでしょう。

 

私の上にあるものは 全部賜うたものである(2021年法語カレンダー3月)

 私の上にあるものは 全部賜うたものである

賜るという言葉を私達が最も多く使うのは敬語として使う場合ではないでしょうか。例えば「貴重な物を賜ります」といった具合で、目上の人から何かを貰った時に使う言葉です。東京にある上野公園の本当の名前は「上野恩賜公園」で、もともとは宮内庁が所有していた領地を一般の人でも利用できるように整備した公園です。なので天皇陛下が日本国民のために土地を提供してくれたという意味合いで恩賜という名前が付いているのです。

今月の法語は「私の上にあるものは 全部賜うたものである」です。漢字の意味からすれば今の私を構成するすべてのものは目上の人に貰ったものである、という意味合いになるのではないでしょうか。ではその目上の人とはだれのことでしょうか。それをじっくり考えてみるのが今月の法語のテーマと思いました。一つの考え方では、この目上の人は阿弥陀様と考えられます。私達の全ては阿弥陀様からいただいたものというのも確かでしょう。また、ひとつの考えとして、自分以外のすべての人、もの、事柄であるとも考えられます。

 自利利他円満して

 帰命方便巧荘厳

 こころもことばもたえたれば

 不可思議尊を帰命せよ

というご和讃を親鸞聖人は残されて下さっています。このご和讃の中に自利利他円満という言葉が出てきます。この自利と利他をとても簡単に言うと自利というのは、自分が得なこと、メリットのあること、利他は相手や他人にとってメリットのあることになります。大切なことはこの自利と利他の2つは必ずしも裏表ではないということです。先のご和讃でも自利、利他の双方が円満であるの大切さが説かれているのではないでしょうか。有名な話ですが近江商人の人たちが大切にされていた「三方良し」の考え方に通じるものがあります。近江の商人さんは商売のするときに「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」の気持ちを大切にして、そのお陰で成功できたと言われています。その当時の近江の商人さんたちはまさに「私の上にあるものは 全部賜うたものである」の気持ちを持っていたのではないでしょうか。

 

念仏者の人生はまさに 慚愧と歓喜の交錯(2021年法語カレンダー2月)

念仏者の人生はまさに 慚愧と歓喜の交錯

 

スヌーピーというキャラクターは皆さんご存じだと思います。キャラクター自体は結構かわいくて女性にも人気がありますが、もとになった漫画は、風刺も交えて哲学的な内容が盛りこまれているお話が多いです。その漫画の中に出てくる言葉で「人生には晴れもあれば雨もある、昼もあれば夜もある、山があれば谷もある。」というものがあります。人生の辛いときを乗る切るためには、とても良い考え方ですし、長い人生を生きていくためのテクニックでもあると思います。今月の法語はその一歩先、テクニックだけではなく、より人生を深く味わうための提案でもあると思います。

今月の法語は「念仏者の人生はまさに 慚愧と歓喜の交錯」であります。

 

念仏成仏これ真宗

万行諸善これ仮門

権実真仮をわかずして

自然に浄土をえぞしらぬ

 

これは浄土和讃の一首です。私達は自らの道で悟りを開こうとしてもなかなか上手くはいかないものです。そしてお念仏の道、阿弥陀様を信じる道こそがお浄土への道なのです。しかし、阿弥陀様を頼りにする道と自ら悟りを開こうとする道の区別をきちんとできないようでは中々お浄土は見えてこない、そのような内容の御和讃だと思います。そして今月の法語にある慚愧は阿弥陀様のお救いを素直に信ずることができずその道から外れてしまった後悔を、歓喜はそんな道を外れたことに気づくことできてまた阿弥陀様のお救いの道を歩くことが出来ることの喜びを表しているのではないでしょうか。私達の人生もこの後悔と喜びの連続なのだと思います。先程のスヌーピーの話であれば雨もいつまでも続かない、いつか晴れるだろうで終わるのではなく、雨が降るからこそ晴れのありがたみが分かりますし、晴れであっても雨の必要性を実感できる、そこまで考えることができればより私達の日常もより味わい深いものになるのではないでしょうか。

 

 

私を生かしておる力というものに帰っていく歩み それが仏道(2021年法語カレンダー1月)

私を生かしておる力というものに帰っていく歩み それが仏道

最近はお墓への納骨だけでなく「散骨」というものが流行っているそうです。散骨の是非は別として、死んだ後に海に帰って行くというのは生き物としては至極当然なことではあります。私達の人間も含め、生物のルーツは海中の小さな生物でした。近年の研究で「ナメクジウオ」という海に住むナメクジのような生き物が脊椎動物の祖先であると分かってきたそうです。こんな実はこのナメクジのような生き物がもつ、遺伝子の90%が私達人間と共通であるというのですから、驚きです。そのような生き物が進化し陸に上がり私達の祖先になりました。そして今の私達の生活を考えても海は欠くことができない偉大なものなのです。魚を食べるだけでなく、水蒸気の元になる海がなければ雨も降りませんし、川も流れません。そして雨が降れば地上の様々な成分はまた海へと帰っていくのです。

ご和讃でも海という漢字は良く登場します。

名号不思議の海水は

逆謗屍骸もどどまらず

衆悪の万川帰しぬれば

功徳のうしおに一味なり

という一首が高僧和讃にもありますが、阿弥陀様の大きな大きな慈悲の心を海の水として表され、どんな愚かな私達であっても、阿弥陀様のお救いを信じて、その流れに身を任せば、阿弥陀様の大きな慈悲の海にたどり着き、その大きな海ではもう愚かな私達など関係なくなってしまうと言った内容のご和讃ではないでしょうか。

そして今月の法語ですが、私達は一見私自身の力で生きているように感じますが、私達自身の力で生きることなど到底不可能なのです。現実でも海が急に無くなってしまえば水を確保することなどできなくなってしまうのです。人間関係でも同じことが言えると思います。私達を活かしてくれているものの存在が分かれば分かるほど、それらを大切にしていこうと思うのです。そして阿弥陀様のお心に気付いて大切にしていこうと思った時に私達ができることがお念仏なのです。

 

私の口から現れ出でてくださる仏さま 南無阿弥陀仏(2021法語カレンダー表紙)

私の口から現れ出でてくださる仏さま 南無阿弥陀仏

2021年の法語カレンダー表紙の言葉です。本当に口の中に阿弥陀様が住んでいるのでないことはわかっているとは思いますが、この言葉のお話をするときには本願力回向のお話になるのではないでしょうか。『「信心」というは すなわち本願力回向の信心なり』という有名な一文がありますが、まさに私達の信心というのは阿弥陀様からいただいた信心でありますし、その信心が形として現れるのが、私達の口から出てくる「南無阿弥陀仏」のお念仏ではないでしょうか。なかなか難しいことなのですが、私達が阿弥陀様に救われたいと願う、その気持ちを起こすのも阿弥陀様のお力なのです。例えば私達が誰かに相談に乗ってほしいときに「ねぇねぇ、ちょっと聞いてほしいことがあるんだけど、、、」と最初に声をかけると思うのですが、その時の主体は相談をしたい私達なのでしょう。相談しようと声をかけて、相談相手が開口一番に「あなたが相談に来ることはわかっていたよ、すべて知っているのだから」と言われたらギョッと驚くでしょうが、それだけ普段から私達のことをいつも見てくれている人を相談相手に選んだのでしょう。でも「あなたが私を相談相手に選んだも私の仕業」と言われれば動揺するしかないでしょう。「私にはそれだけあなたと強固な信頼関係を築いてきた自信がある」と言われればビックリするかもしれませんが、最高の友人であることに間違いありません。そして、今回の法語ですが、阿弥陀様のことを思い、南無阿弥陀仏のお念仏が出てくるということも阿弥陀様のお力であって、阿弥陀様を頼りにしたいという気持ちを込めての南無とお唱えするのでしょう。

 

弥陀の大悲の誓願を

ふかく信ぜんひとはみな

ねてもさめてもへだてなく

南無阿弥陀仏をとなうべし

 

親鸞聖人もご和讃でこのように残されておりますが、阿弥陀様のお救いに気づいて、深く信じる人こそ南無阿弥陀仏のお念仏をお唱えすることが優しい優しい阿弥陀様への最高のお返事ではないでしょうか。

先程の友人の例えであれば「相談に乗るよ」と言ってくれた友人には何の遠慮もなく、信頼して相談することが何よりの恩返しになるのでしょう。

 

 

令和2年 除夜の鐘(お昼)

令和2年 大晦日の除夜の鐘はお昼に行います。

新型コロナウイルス感染症が拡大の様相を呈していますので、密を避けるために除夜の鐘をお昼に行うこととなりました。

日時:令和2年12月31日 午前11時〜午後1時

場所:隨願寺 鐘撞堂

どなた様でもご参加いただけます。ご予約等は必要ございません。例年通り108回以上でも鐘はつけますのでどのお時間に来ていただいても構いません。

今年は個包装のお菓子をお配りします。

当日は間隔を空けた列や鐘撞の縄の消毒、使い捨て手袋の配布を行います。感染症対策は行いますが、体調面に不安のある方の参加はご遠慮願います。

いだかれてありとも知らずおろかにもわれ反抗す大いなるみ手に(2020年カレンダーの5月)

今日はまず川柳を紹介したいと思います。最初の川柳は

「お節介したくなるのが親心」

子供の成長のためを思うと無理に手伝ったりしない方がいいのは、親ならみな分かっていると思います。それでも困っている子供を見るとついついお節介をしてしまうのです。

次の川柳は

「娘みて遺伝の怖さ思い知る」

この川柳では遺伝の怖さと書いていて、自分の遺伝子が子供に遺伝すること、似ていることを悲観しているように思えます。でも、本当は自分自身に似ていることに喜びを感じているのでしょう。

どちらの川柳も親が子供を思うその気持ちはただただ単純な愛の気持ちとして表現されています。

真宗では阿弥陀様のことをよく「親さま」といいます。これは阿弥陀様が私達を思う気持ちは親心に似ているからでしょう。阿弥陀様は摂取不捨のお誓いを立てて菩薩様となられました。

十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし

摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる

このご和讃は浄土和讃の一首で、阿弥陀様はこの世界に住むすべての人を救い取る、そのような阿弥陀様のお力を親鸞聖人はこのご和讃に残されました。

摂取不捨の言葉は「救いとる」ことだけではなく、「見捨てない」ことも含まれています。

子供が美男美女に生まれなくても、反抗期を迎えても、結婚して別の家庭を持っても、子供というだけで可愛いと思ってしまうのが親なのです。

今月の言葉ですが九條武子さんの

いだかれてありとも知らずおろかにもわれ反抗す大いなるみ手に  

という言葉です。

九條さんは親心に対する子供の気持ちをこのように残されました。阿弥陀様は摂取不捨の大慈悲の心を常に私達に向けているのに、私達はそのお心に気づかない、気づいてもなお抗ってしまうのです。それでもやはり阿弥陀様は私達を救おうと救おうとしてもらえるのです。まさに現実世界の親心とそっくりだと思います。「親孝行 したい時に 親はなし」という有名な言葉もありますが、現実世界ではその親心に気づいて、報いようと思ってもそれに気づけるときにはもう亡くってしまっている。もしくは亡くってしまったからこそ気づくということを表しています。でも、阿弥陀様はいなくなってしまうということはないので、阿弥陀様の親心に気づくことに遅すぎるということはないのでしょう。そして、その阿弥陀様のお救いに気づいたときのお返しは「なもあみだぶつ」のお念仏なのです。

 

お念仏というのはつまり自分が自分に対話する道(2020年カレンダーの4月)

お念仏というのはつまり自分が自分に対話する道

  曽我量深

今月の法語ですがお念仏というのはつまり自分が自分に対話する道という曽我量深さんの言葉です。

お念仏というと「なまんだんぶ」という称名念仏が一般的です。漢字にすると「南無阿弥陀仏」となります。南無はサンスクリット語のナマスが由来で日本語にすると「帰依します」と意味になります。そして、その後に阿弥陀仏と続きますので、「なまんだんぶ」で阿弥陀様への帰依の気持ちを端的に表しています。

今月の法語カレンダーの言葉ですが曽我量深さんの「お念仏というのはつまり自分が自分に対話する道」という言葉です。お念仏は私達の阿弥陀様への気持ちを口に出して唱えているのに、なぜ自分自身の話になるのでしょうか。

清浄光明ならびなし
遇斯光のゆえなれば
一切の業繋ものぞこりぬ
畢竟依(ひきょうえ)を帰命せよ

これは浄土和讃のひとつの和讃ですが、阿弥陀様のお力を光で表していて、その力の偉大さ、そして私達にとってとても頼りになるということが表されていて、最後に「畢竟依を帰命せよ」と結んでいます。畢竟依とは私たちの究極の、拠り所であるということです。阿弥陀様は究極の拠り所にして生きていくことはこれほど心強いものはないでしょう。しかし、究極の拠り所とすることは大変難しいものだと思います。私達は生活の中で頼りにするのは人間やお金などわかりやすいものにしたくなります。今月の法語を残してくださった曽我量深さんの残した言葉に「あてにならぬことをあてにしているからふらふらである」というものもあります。人間やお金を頼りにするのは簡単なことですが、人間の気持ちはコロコロと変わりますし、お金も右から左に流れてしまえばなくなってしまいます。つまり、頼りにするのも簡単だけれども、私達から離れていくのも簡単なのです。

しかし、いくら説明を受けても人生のすべてで阿弥陀様を頼りにするのは無理かもしれません。それはお経の教えの理解が出来ていないとか阿弥陀様を信じる力が足りていないからということも理由になるかもしれません。そして何よりも自分自身のことが分かっていないから阿弥陀様の救いを信じきれないのでしょう。

「自分で見えないのは背中と欠点である」という言葉があるように、自分のだめなところをハッキリと理解している人はなかなかいないでしょう。また、自分では欠点と思っていても、他人にそれを指摘されるとイラッとしてしまいます。これはその欠点も含めて自分であることに納得がいっていないからでしょう。

なので、お念仏をして阿弥陀様を頼りにするということは私達自身で自分のことをより深く理解することが第一歩であり、探求していくべきことになると思います。

本当のものがわからないと 本当でないものを本当にする(2020年カレンダーの3月)

ハウスワインというお酒をご存知でしょうか。このハウスワインというのは産地など特定の種類を指しているものではありません。もともとはハウス、お家に来客があったときに最初に出す、我が家のお気に入りのワインというもので、今の日本ではお値打ちでそのお店のオススメのワインのことをハウスワインと呼びます。

ある会社の宴会でのお話ですが、このハウスワインを、ビニールハウスでハウス栽培のワインと勘違いして、「ハウス栽培のブドウのワインで作るからハウスワインって言うんだよ」と自慢している部長さんがいて、本当の意味を知っている部下は笑いを堪えるのが必死だったという話があります。簡単にいえば部長さんの知ったかぶりです。

ことわざですが「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」というのは一度は聞いたことがあると思います。わかりやすいことわざですが、ほとんどの人は一度くらい体験したことはあるのではないでしょうか。知っているふりをしてその場をしのいでも後に良いことはないし、知っているふりがその場でバレて恥を書くこともあるでしょう。

 

先程の部長さんのお話はただの笑い話ですが、もし何も知らずに部長さんの話を信じてしまう人がいたら、その人が一番可哀想な人ではないでしょうか。この人には何の罪もないのに、恥をかいてしまう知識を身に着けてしまうからです。

私達、真宗門徒の御本尊は阿弥陀様であることは、ほとんどの方は知っていると思います。お家のお仏壇を見ていただければ、御本尊には阿弥陀様の木像や絵像が安置されていると思います。また、床の間に、南無阿弥陀仏のお名号の軸を掲げている方もいると思います。よく、「お念仏のありがたみは、木像より絵像が、絵像よりお名号の方がよくわかる」と言われています。もちろんどれもありがたいものなのですが、国宝に指定されてる木像と言われると拝んでいるだけでありがたいと思ってします。そのような人が多いと思います。それに対してお家にある南無阿弥陀仏のお名号はただお念仏が書かれている掛け軸と思うかもしれません。

お念仏、つまり称名念仏なのですが、それは目の前にあるのが国宝だろうが無名のお軸でも本当は変わらないです。しかし、国宝であるといった肩書がついてしまうと、余計な思い、気持ちがそのお念仏に乗ってしまうのです。これは木像とお名号を比べても同じことが言えると思います。ついつい仏様の形を立体化した木像の方が余計な気持ちが乗りやすいことでしょう。なので、お名号の方がお念仏のありがたみがよく分かると言われる要因だと思います。

今月の法語は

本当のものがわからないと本当でないものを本当にする

という安田さんのお言葉ですが、お念仏の本当を知っていると、木像でも絵像でもお名号でもさらには御本尊がなくても、お念仏のありがたみを味わうことができると思います。

 

生のみが我らにあらず死もまた我らなり(2020年カレンダーの2月)

まずはご和讃の紹介をさせていただきたいと思います。

五濁悪世のわれらこそ
金剛の信心ばかりにて
ながく生死をすてはてて
自然の浄土にいたるなれ

浄土高僧和讃の中で善導大師さんを讃えたご和讃の一つです。この末法の世界にいる私達は、阿弥陀様への信心によって、生死の迷いの世界から真の悟りの世界へと導かれるといった内容です。親鸞聖人が生きていた時代はまさに末法の世界でした。五濁は人間が出会うであろう5つの汚れを表しています。「劫濁こうじょく」「見濁けんじょく」「煩悩濁ぼんのうじょく」「衆生濁しゅじょうじょく」「命濁みょうじょく」がその5つの汚れです。今日はその中で「劫濁こうじょく」についてお話したいと思います。「劫濁こうじょく」は飢饉・疫病・争乱などの社会悪が起こることをいいます。末法の世の中はこの「劫濁こうじょく」の時代と言えます。社会の情勢が不安定になると人のこころはどんどん荒んでいきます。

中国の古いことわざで「墨に近づけば必ず黒くなり、朱に近づけば必ず赤くなる(近墨必緇、近朱必赤)」というものがあります。

これは黒色や赤色といった強い色に近づくと他の色は簡単に飲み込まれてしますという意味で、人間関係や生活環境でも同様です。良い面や悪い面のどちらでも人は周りの環境で簡単に変わってしまいます。

それが末法の世で「劫濁こうじょく」の時代であれば、人々の心は悪い方へ悪い方へ変わっていってします。身近な人の死が、とてもありふれた時代で、いつ自分の肉親も死んでしますかもしれない。また明日には自分自身も死んでしまうかもしれないそんな時代です。そんな環境では人はどんなことをしても生き抜こう、死にたくないとより強く感じてしまうものです。そのような心があって当たり前です。

今月の法語ですが、

生のみが我らにあらず死もまた我らなり

  清沢満之

と残されました。生と死は本来は表裏一体のはずなのに、死を忌み嫌い遠ざけようとしてしまいます。本来仏教では生老病死が四苦として挙げられていて、生きていることも苦しみです。現代では親鸞聖人の生きた末法の世界とは違い、死が身近に感じることができないそのような世の中です。情報が世界に溢れ、すぐに答えがさがせてしまう。同じような答えが返ってくる、そのような世界ではないでしょうか。生きる苦しみも死ぬ苦しみも千差万別のはずなのに同じ答えでは対応しきれないでしょう。生きていることが苦しみで自分に迷ってしまい自分自身で命を断ってしまうそのような人も現れてしまいます。今月の法語は自分自身の中に置き換えて、自分でその答えを考えてみる、そのような機会になるのではないでしょうか。