きくというは 信心をあらわす 御のりなりわれらは 善人にもあらず 賢人にもあらず

二月・三月の法語カレンダー

阿弥陀さまの「摂取不捨」のお心が、私に聞き届いた心を「信心」と言いますが、「聞く」ことは難しいです。新聞の投書欄に「耳のテスト」と題して、「二十歳の息子が高校生のころ、何を話しかけても返事がないので、『お小遣い、足りている?』と話しかけてみた。すると、パッとこちらを見て「足りてない、くれるの?」と言う。いいえ、単なる耳のテストですよ。(この手はその後も何回か・56歳)」。自分の都合で聞いているんです。今年選ばれた現代学生百人一首には「携帯を見つめてばかりの若者よ私の祖母に席をゆずって」(中学2年)とありました。自分のことに夢中になって、大切な声が届かないのです。以前、「両親の働く姿に胸打たれそっと終わらすマイ反抗期」(中学3年)の歌がありましたが、やっと聞こえる耳になれたのでしょう。
自分が善人であり、賢人であると思っているとき、聞く耳が持てないのが私であります

お仏壇のお荘厳 その1 ~導入~


まず、お仏壇とは何かといいますとお浄土をそのもの表そうとしているもので、それぞれのお家の信仰の中心と言えます。

お家のお仏壇をよく見ていただくと、龍の彫刻や金箔で装飾された様子はまさにお浄土の姿ではないでしょうか。

そのお仏壇には阿弥陀さまを安置して、毎日お念仏をすることが安心につながることになります。大切なことはお仏壇は先祖の魂が宿る、祭るための祭壇ではないということです。お仏壇のことをお内仏ということもあります。それはお家のお仏壇にある阿弥陀様のことを内と表しています。では内に対して外となるのはお寺の阿弥陀様であるといえるでしょう。このお内仏という言葉からもお仏壇の中心は阿弥陀様であるということは必ず覚えておきましょう。

続いてお仏壇には何が必要かということになります。お仏壇には最低でも阿弥陀様と三具足は用意したいものです。三具足の具足とは仏具のことで、香炉・燭台・花瓶(かひん)の三点になります。これら三具足を含めた仏具やお仏壇そのものを購入するのは年季法要のタイミングに合わせてと言われることも多いですがまったく関係はありません。ご家族の方が生前であっても、お仏壇を新調することは忌まわしいことどころか、大変信仰が深く、ありがたいことと言えるでしょう。人間とは勝手なものでやはり新しいものは大切にするものですし、何より気力体力がある間から毎日丁寧にお給仕・お勤めをすることはとても大切なことではないでしょうか。

また、お仏壇を置く場所も阿弥陀様が東を向くように設置するといわれることもあります。それは東を向いた阿弥陀様に私たちが正面で対峙すると私たちは西を向くことになります。西方浄土説という西の方角にお浄土があり、それに向かいお勤めするべきという考え方からきている用ですが、お仏壇の方角を気にする必要はありません。

お仏壇の方角よりもそれぞれのお家で信仰の中心場所に相応しい場所、集まりやすく、かつ心が穏やかになるような場所が相応しいといえるでしょう。お仏壇は決して忌まわしいものではありませんので、家のすみ、暗く奥まった場所に隠すように設置するよりは家族みんなが思い立ってすぐに向かえるような場所(例えばリビングの隣の部屋)などに設置するのが相応しいといえるでしょう。

最後にお仏壇の種類についてお話しさせていただきます。お仏壇には全体が金色の金仏壇、白木で作られた白木仏壇、黒檀で作られた黒仏壇、さらに家具調仏壇など様々なものがございます。真宗高田派では金仏壇を正式なものとしていますが、これもこだわる必要はなく、ご家族で気に入られたもの、お家の雰囲気や設置場所に適当なものをお求め頂けば良いと思います。毎日お勤めをする場所なのでお家の方皆さんが納得されたものをお使いいただくのが、良いと思います。


 

煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり  如来誓願の薬はよく智愚の毒を滅するなり

1月、2月の法語カレンダー

煩悩と言えば、代表的なものが三毒(どく)の煩悩で、貪欲(どんよく)と瞋恚(しんい)と愚痴(ぐち)であります。親鸞聖人のお言葉では、「欲も多く、怒り腹立ち、そねみ、ねたむ」心であり、その心が私を煩(わずら)わせ悩(なや)ませるのです。つまり、苦しみの原因が煩悩なのです。
それに対して、涅槃は、苦しみを滅した安らぎの境地でありますから、煩悩を断ち切ることなく涅槃の境地を得るということはどういうことなのでしょうか。
それに答えたものが、「如来誓願(せいがん)の薬(くすり)は、よく智愚(ちぐ)の毒(どく)を滅するなり」であります。「如来誓願の薬」とは、阿弥陀如来さまの「摂取不捨(せつしゆふしや)」の誓願のことであります。煩悩を抱(かか)えた私をこそ必ず救うと言われているのであります。その誓願が煩悩いっぱいの私に届くとき、「智愚の毒」、つまり、うぬぼれたり落ち込んだりする私に、こんな私を見捨てることのないお心だったと、申し訳ない思いで安堵(あんど)させていただけるのでした。
お念仏者であった九篠武子さんの「いだかれてありとも知らずおろかにも われ反抗す大いなるみ手に」の歌を思い出しました。

前坊守 松山和子 中陰法要

1月5日(土)  《初七日》 19時から

1月12日(土) 《二七日・三七日》 18時半から

1月26日(土) 《四七日・初月忌》 18時半から

2月2日(土)  《五七日・六七日》 18時半から

2月16日(土) 《満中陰》 19時から

除夜の鐘のお知らせ

12月31日 11時45分から (11時30分に照明を点灯)

今年の振る舞いのお菓子はうまい棒です。参加された方おひとり一本お持ち帰りいただけます。5つの味それぞれ30本 合計150名様の先着になります。

当日は寒波の予報ですので温かい格好でご参加ください。

自然というはもとより しからしむるという言葉なり

12月の法語カレンダー

仏教では「自然」を「じねん」と読みます。12月のカレンダーのお言葉は親鸞聖人のお言葉ですが、この続きがあります。それは「弥陀仏の御誓いの、もとより行者のはからいにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまいて、迎えんとはからわせたまいたるによりて、行者のよからんともあしからんとも思わぬを、自然とは申すぞとききて候う。」であります。つまり、阿弥陀さまのお誓いとは「摂取不捨のお誓い」であり、お念仏を必ず仏にすると誓われおります。私の思い(=煩悩)はその時々の自分の都合で変わります。そんなものに左右されることなく、煩悩一杯のこの私が間違いなく救われてゆくのが「自然」なのであります。ですから親鸞聖人は「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取して捨てざれは 阿弥陀となずけたてまつる」と和讃されました。