信心というのは 凡夫が仏さまと同じ命を共有するという出来事(2021年法語カレンダー6月)

信心というのは 凡夫が仏さまと同じ命を共有するという出来事

人と機械の違いは「いのち」があるかないかで区別されますが「いのち」とはなんでしょうか。心臓の鼓動や成長も「いのち」の定義の一つでしょうが、なにより「心」があるかないかではないでしょうか。今の時代は人工頭脳などが発達してきて、人とよく似た思考ができるロボットも開発されていますが、それは心を持っているとは言えないのでしょう。また、「心の無い仕事をするな」と言われたりもしますが、同じ仕事でも「心を込めて」した仕事には何かしらの違いが出てくると思います。

正信偈には

往 還 回 向 由 他 力

正 定 之 因 唯 信 心

という箇所があります。ここでは「私たちが救われるのは阿弥陀様のお力であり、そのためにはただ信心を持つしかない」ということが残されていると思います。信心とは阿弥陀様のお力ををただただ疑いなく信じられるということです。そして、その結果が無意識に口から出てくる南無阿弥陀仏のお念仏なのでしょう。私達は毎日のお勤めの中で何度もお念仏をしていると思います。しかし、このお念仏にも気持ちが入っていなければこれほど勿体ないことはないでしょう。気持ちの入っていないお念仏はただ機械でCDを再生しているようなもので、そのお念仏には「いのち」はないと思います。「いのち」のある、心のこもったお念仏は必ず阿弥陀様にも伝わると思います。

「信心というのは 凡夫が仏さまと同じ命を共有するという出来事」

が今月の法語になります。こんな凡夫の私達でも、こころのこもった、信心のあるお念仏であれば阿弥陀様とその気持ちを共有することができると思います。

 

 

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