正信偈のお話 ~27~ (凡聖逆謗斉回入)

【どんな数字でもゼロをかけたゼロになる】
凡聖逆謗斉回入
ゼロの掛け算を覚えたのはいつ頃でしょうか。今は小学校でも習うそうですが、教えてもらった直後はなかなか理解できなかったものです。どれだけ大きい数の掛け算でも最後にゼロをかけてしまえばゼロになりますし、掛け算の最初にゼロをかけてあればゼロになってしまうことが分かってしまいます。またこのゼロの掛け算は、理屈をわからなくてもできますが、やはり数学的な理解をしてこそ意味のあるものでしょう。また阿弥陀様はどんな私たちでも救おうとしてくださっていますし、そのお返事が南無阿弥陀仏のお念仏なのです。そして、そのことにいつ気付くかは人それぞれなのです。そしてお念仏も空返事よりも心ある返事の方が阿弥陀様も喜ぶことでしょう。

正信偈のお話 ~26~ (不断煩悩得涅槃)

【最強の矛と盾、一緒に売ってもいいじゃない】
不断煩悩得涅槃
ものごとの道理が揃わないことを矛盾といいますが、これは最強の盾と最強の矛を一緒に売っているお店があったことが語源になっているそうです。ある村にいるおじいちゃんで「自惚れはいかん、ワシは生きてきて一度も自慢したことがない」が口癖でした。このおじいちゃんは村で「矛盾おじいちゃん」と呼ばれていたそうです。人間は煩悩が大変多く、これを滅することで悟りを得ようとしたのが仏教の始まりです。一見、煩悩を残しつつ悟りを開こうとするのは矛盾しているように思えます。しかし浄土真宗では現世でこんな煩悩だらけの私達たちでも入滅後は極楽浄土に生まれることができるのです。

正信偈のお話 ~25~ (能発一念喜愛心)

愛するよりも愛されたい?
能発一念喜愛心
年頃の女の子の悩みで「愛するのと愛されるのどっちが幸せ?」というのがあるそうです。雑誌やインターネットでも、過去の体験談や既婚者の意見など様々盛り上がっているので、みんな興味があるのでしょう。でも結局は「愛されるから愛することができるし、その逆もしかり」というところに落ち着くのでしょう。私達人間は精一杯愛しても、相手から何も帰ってこなかったら、いつかは愛想をつかしてしまうのです。阿弥陀様は、私達が無愛想でもいつも愛をくださっています。でも無愛想なままでいるよりも、私達から愛を返し、相思相愛になったほうがずっといいでしょう。

正信偈のお話 ~24~ (応信如来如実言)

昨日までの考え、今日からの考え、まるで別人
応信如来如実言
朝令暮改という四字熟語があります。朝にできた法律が夕方には変わってしまう、コロコロと変わってしまう様子が表されています。意見がコロコロと変わってしまう人は、仕事関係では嫌われることが多いのではないでしょうか。もちろんタダの気分屋さんだったら、困るでしょうが、状況の変化や新たに勉強し意見が変わることもあります。これは成長とも言えることなのですが、あとはその変化を上手く説明ができるかなのでしょう。私達は成長して阿弥陀様の気持ちに気づけたと思ってもすぐに忘れてしまうのです。なので毎日のお念仏を再確認の機会に出来たら良いのではないでしょうか。

正信偈のお話 ~23~ (五濁悪時群生海)

綺麗すぎる水だと魚は死んでしまう
五濁悪時群生海
一見、とても綺麗に見える水、これは不純物を徹底的に濾過した水ですが、これに魚を入れるとあっという間に死んでしまいます。例えばヤマメなどが住んでいる清流をイメージすると、とても澄んだ水に思えますが、そんなことはないのです。石を裏返せば、落ち葉の屑やそれを食べる虫たち、石の表面には苔が生えたりしているのです。見えないところのものが生き物たちを生かしているのです。私達のこころの中、住んでいるこの世界も同じく汚いものがあるからこそ、見た目の綺麗さが維持できているのかもしれません。そしてそのことを気づくことが大切なのでしょう。

正信偈のお話 ~22~ (唯説弥陀本願海)

誰かを導けたという喜び
唯 説 弥 陀 本 願 海
現代ではかなり減ってきましたが結婚には仲人さんがつきものでした。そんな仲人さんですが「仲人七嘘」という言葉があるのはご存知でしょうか。結婚式で仲人さんの挨拶といえば、「優秀な成績で・・・」「清楚な方で・・・」と新郎新婦を褒めるのですが、出席者の親族や同級生からはクスクスと笑い声が聞こえてくるものです。定形文かも知れませんが仲人さんは精一杯、結婚式をもり立てようと頑張っているのです。やはり男女の縁を取り持って道を作ってあげることを自身の喜びにしているのでしょう。またお釈迦様は私達に「ご本願」という道を残してくださったのです。

正信偈のお話 ~21~ (如来所以興出世)

一人ひとりが役割をもってこの世界に生まれた
如 来 所 以 興 出 世
『最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残ることが出来るのは、変化できる者である。』進化論のチャールズダーウィンが残した名言です。私達の世界ではつい、強いもの、賢いものに目が行くと思います。他のものとはちょっと違っていて強そうに見えないものでも周りの環境が変化したら、そのちょっとの違いが生き残る鍵になるかもしれません。ご先祖様もそれぞれの個性があってこそ、今の私達がありますし、お釈迦様、親鸞聖人、七高僧さんをはじめ、様々な方がいたからこそ今、お念仏できるのです。

正信偈のお話 ~20~ (必至滅度願成就)

助けてくれる人は必ずいる
必 至 滅 度 願 成 就
いくら家族や仲のいい友人といえどもすべてのことに以心伝心とはいかないのでしょう。日本では自殺してしまった方の3割しか直前に悩みを相談できなかったそうです。もちろん相談相手を巻き込んでしまっては申し訳ないと思う気持ちもあるのでしょうが、言葉にしないと伝わらないことのほうがほとんどでしょう。それほど重い悩みでなくてもやはり言葉に出して「助けて」というのが難しいことだと思います。でも、私達は「南無阿弥陀佛」のお念仏ではいつも「助けて」と言っていることを思い出せば、普段も「助けて」と言えるようになるのではないでしょうか。

正信偈のお話 ~19~ (成等覚証大涅槃)

どんな道を歩いてもいいんだよ
成 等 覚 証 大 涅 槃
今まで歩んできた道を振り返ってみて、あの時こうしておけばよかった、と思うことは数多くあります。そして、その先にはもっと良い未来があったかもしれないと夢みることもあると思います。しかし、時間は戻せないですし、過去の行いを改めていても、いい未来につながっていた保証などないのです。ただし後悔するような行いを反省し、今後につなげることはできるのではないでしょうか。 仏教でも様々な考え方、宗派などがありますが最終的には解脱(悟り)に到達することなのでしょう。その方法は様々なのでしょうが、浄土真宗では阿弥陀様の大悲によってどんな人でも救われるという道なのです。

人間は我を知らず 我ほど知り難いものはないのである(2021年法語カレンダー7月)

 

自力称名のひとはみな

如来の本願信ぜねば

うたがうつみのふかきゆえ

七宝の獄にぞいましむる

 

これは正像末和讃の一首です。このご和讃は「阿弥陀様の力ではなく、自分の力で悟りを得ようとする人は罪深く、金銀財宝で作られた檻の中で過ごすことになる」といった内容です。このご和讃では阿弥陀様のお力を信じることの大切さと自力での救済を求めることが愚かであることがよく表されていると思います。特に「七宝の獄」という例えはとても分かりやすいと思います。現実世界で高級品や金品に囲まれて満足することは一見豊かに見えますが、実は自分を宝物で作られた檻に閉じ込めているようなものなのです。なかなか手に入れないものを手に入れ、自分は優れていると優越感に浸ることはやはり愚かことであるのでしょう。阿弥陀様のお救いはどんな人にも平等に向けられていると思うとなかなかその価値を理解することは難しいと思います。子供のころに「馬鹿」などと書いた張り紙を背中に付けたり、つけられたりして遊んだ経験は皆さんあると思います。自分の背中は見えないから楽しめる遊びなのでしょうが、大人になってからも私たちは同じようなことを続けているのです。他人を見て、自分の中で勝手に優劣を付けて目に見えない張り紙を他人の背中にくっつけているのです。でも実は他人にそのような張り紙を付けると実は自分にも「愚かなもの」という張り紙を付けていることにはなかなか気付かないものなのです。

 

今月の法語は

「人間は我を知らず 我ほど知り難いものはないのである」という言葉です。

まさに自分の背中は見えにくいのに、その背中が見えたつもりになっている。そのような私たちを阿弥陀様は哀れみ、そして優しい眼差しで見てくださっていることを忘れてはいけないでしょう。