きくというは 信心をあらわす 御のりなりわれらは 善人にもあらず 賢人にもあらず

二月・三月の法語カレンダー

阿弥陀さまの「摂取不捨」のお心が、私に聞き届いた心を「信心」と言いますが、「聞く」ことは難しいです。新聞の投書欄に「耳のテスト」と題して、「二十歳の息子が高校生のころ、何を話しかけても返事がないので、『お小遣い、足りている?』と話しかけてみた。すると、パッとこちらを見て「足りてない、くれるの?」と言う。いいえ、単なる耳のテストですよ。(この手はその後も何回か・56歳)」。自分の都合で聞いているんです。今年選ばれた現代学生百人一首には「携帯を見つめてばかりの若者よ私の祖母に席をゆずって」(中学2年)とありました。自分のことに夢中になって、大切な声が届かないのです。以前、「両親の働く姿に胸打たれそっと終わらすマイ反抗期」(中学3年)の歌がありましたが、やっと聞こえる耳になれたのでしょう。
自分が善人であり、賢人であると思っているとき、聞く耳が持てないのが私であります

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