お仏壇のお荘厳 そのよん ~お念仏の作法~

本日はお念仏の際の作法についてお話したいと思います。

まず、最初にこの「お念珠」についてです。これを見ていただいて「お数珠」と思われる方も多いと思います。宗派によって呼び方が違うだけで同じものと理解していただいて構いません。正式には単連のもの、二連のもの、男性用、女性用など様々な決まりがありますが、こちらも気にしなくても構いません。次にお念珠の持ち方ですが、親玉という房が付いている玉を上向きにして、房は左側にします。合掌の際は両手で持ちますが、持ち歩く際は左手で持ちます。

お給仕の際にお線香の話しをしましたが、今回は焼香についてお話します。焼香のタイミングは仏前で礼拝する前に行います。お香を落とす場所は炭があれば炭の上に、お線香であればお線香に沿って落とします。回数は3回です。他の宗ではお香をいただく(軽く持ち上げる)ことをすることもありますが、浄土真宗ではお香をいただくことはありません。

続いて読経になりますが、最初に教本は大切なものであるということを覚えておいてください。なので、床に置くことはしませんし、教本を開く前にいただくということをします。教本は経机の上に置くようにして、もし自宅の法事などで教本を床にしか置けない場合は教本入れや袱紗を床に敷いてから教本を置きましょう。また、教本をいただく時は両手で教本を持ち、顔の高さくらいまで持ち上げます。ゆっくり下してから教本を開くのですが、開いてから読経の前にもう一度、いただくと丁寧な作法になります。読経が終わったときにも教本をいただきます。この際も、読経後に一度、閉じた後にもう一度いただくと丁寧になります。

作法の最後になりますが、錀の打ち方です。錀を打ち方はほとんどの場合は三回連続で打ちます。たたく強さを変えて中・小・大の大きさで打つようにします。教本によっては打つタイミングをマークで示されているものもあります。錀は読経に合わせて打つものであって挨拶の代わりに打つものではありません。なので、お仏壇などにただ手を合わせる際は錀を打つ必要はありません。

読経に関して、全体を通しての流れをお話しします。まず、焼香があれば焼香をしていただきます。つづいて合掌、礼拝をしていただきます。そして教本をいただいて、さらに読経の前にもう一度いただきます。そして錀を三打してもらいまして、読経になります。実際にお経を読むことに関しては別の機会にします。お経が終わりましたら経本を閉じる前に一度、閉じてからもう一度いただいて終了となります。

お盆(歓喜会)

 

お盆の解釈は同じ仏教でもそれぞれの宗派によってかなり解釈が異なります。その中で浄土真宗におけるお盆についてお話ししたいと思います。浄土真宗ではお盆のことを歓喜会ともいいます。

まずお盆の由来ですが、中国の盂蘭盆経というお経から一文字取ってお盆となりました。この盂蘭盆経の内容から歓喜会と浄土真宗では呼ぶこともあります。簡単に言うお釈迦さまのお弟子さんのお母さんが地獄に落ちてしまったけれども、そのあと救われるという物語が書いてあります。

このお釈迦様のお弟子さんは目連さんというお坊さんで神通第一の目連と呼ばれていました。神通力というと離れたところにあるものを見たり、聞いたりすることができる。そのような力です。あるとき、この目連さんは自身の亡くなってしまったお母さんの様子を神通力を使って見てみよう思いました。すると目連さんのお母さんは餓鬼道と呼ばれる地獄に落ちていました。この餓鬼道という地獄は文字通り「飢え」が永遠と続くような地獄です。お母さんが地獄に落ちてしまった理由は盂蘭盆経には書かれていないのですが、他の記録だと飢餓の年、多くの子供が飢えで苦しんでいるときにお母さんは目連さんにだけ食べ物を与えていたので、この餓鬼道に落ちてしまったということで残っています。

目連さんは飢えで苦しんでいるお母さんに食事や飲みものを届けたいと思い、お供え物を供えるのですが、餓鬼道ではすぐに燃えて灰になってしまうのです。目連さんは何とかお母さんを救おうと思い、お釈迦様に相談しました。すると「7月15日に現世の多くの人に様々な食べ物を分け与えなさい」と指南してもらい、目連さんがその通りに実行するとお母さんは餓鬼道から抜け出すことができてお母さんは歓喜して踊ったということです。簡単ではございますが盂蘭盆経の内容はこのような内容になっています。

この盂蘭盆経の内容に中国で道教の流れが組みこまれ、さらに日本古来の祖霊信仰が合体して今のお盆になったと言われています。このことから世間一般ではお盆は亡くなった人のことを大切に思う、しいては先祖供養の機会であるということになっているのかと思います。

昔からお盆では地獄の釜の蓋が開く釜蓋朔日、先祖の魂が迷わないように迎え火、魂を送る送り火、先祖の行きと帰りの乗り物の精霊馬といった風習があると知られています。これらは風習はすべてお盆の期間にご先祖様が現世に帰ってこられて、またあの世にかえって行くと言われることから生まれてきた風習をいえます。

ここまでは日本におけるお盆の概要を説明させていただきました。

ここからは浄土真宗におけるお盆の解釈についてお話させていただきます。

まず、浄土真宗ではご先祖様は阿弥陀様のお力によって必ずお浄土に生まれていると考えます。ご先祖様たちはご自身が望まれて、お浄土で新たに生まれて、幸せな生活をしているご先祖様が現世に帰ってくるとはないとも考えます。なので釜蓋朔日、迎え火、送り火、精霊馬といったものはありえないことになります。なのでこれらの行事を浄土真宗の行事として行うことはありません。

では浄土真宗においてお盆とはどんな行事なのでしょうか。簡単に申しますと「ご先祖様に感謝する」ための行事と考えて構いません。もともとの盂蘭盆経の意味から考えても、お盆の最も本質的なところは私たちはご先祖様から続いてきた縁を確認し、それに感謝することが大切ではないでしょうか。なので盂蘭盆経の中で目連さんのお母さんが救われたのは目連さんが沢山お供え物をしたからではなく、様々な種類の多くのお供えを集めれるというそれだけ大変な思いをしてまでお母さんを救いたいという気持ちが形に現れただけで、お母さんを救ったのは目連さんの母への慈愛の心だったと考えます。今の私たちが存在しているのはご先祖様があったからで、また血縁はなくても過去を生きた何億人もの人がいたからこそ今の私たちがあります。そのことを確認できること、今の私たちが存在することはまさしく「歓喜」といえるのではないでしょうか。また、それら過去の人々をお浄土に導いてくださった阿弥陀様にも感謝し、また私たちを救おうとしてくださる阿弥陀様の存在に気づけることも「歓喜」とも言えます。なのでお盆にはそれらのことを味わいながらのお念仏、「南無阿弥陀仏」としていだだければ浄土真宗の僧侶の私にとってもそれは「歓喜」となります。

 

わがこころよければ 往生すべしとおもうべからず(9月の法語カレンダー)

わがこころよければ 往生すべしとおもうべからず

今月の法語はとても簡単に申せば「現世で良いことをしてもお浄土に生まれるとは限らない」と言う事です。笑い話ですがある夫婦のお話です。ある日、奥さんがとても機嫌がよかったそうです。そこで旦那さんは「何かいいことでもあったの?」と訊ねました。すると奥さんは「実は今日、友達と占いに行ったの」と答えました。「何かいい占いが出たの?」と聞くと「そうじゃないんだけど、占い師さん曰く私の前世はワカメらしいの」「ほー」「でも、前世でとても良い行いをしたからこんな美人に生まれられたんですって」「ほーほー」「納得いってないみたいじゃない」「だってお前、ワカメがどんな良い行いができるんだよ」

これは笑い話ですが、良いことをするといい見返りがあると思うのは人の常であります。人間関係でもギブ&テイクを求めるのはよくある事で「社会的交換理論」と言うそうです。親切な行いをしてもそれに見合うお返し(言葉や物)がなければ不満に思ってしまいます。親鸞聖人は「雑毒の善」という言葉を残されました。善い行いであっても、その親切の中に見返りを求めるようなものでは「雑毒」が混じってしまいます。私たちは信仰の中に置いてもついつい「雑毒」が混じってします。これだけ難しいお経の本を読んだのだから、偉い先生のお話を沢山聞いたのだから、当然お浄土に生まれるだろうと思ってしまいますがこれでは真宗の流れからは外れてしまいます。熱心にお念仏したりお聴聞していだくのは私たちお坊さんからしたらとても嬉しいのですが、お念仏することやお聴聞することが目的になってはいけません。あくまで目的は阿弥陀様の救いに会うことであって、お念仏やお聴聞はそのきっかけに過ぎないのです。

最後にお念仏者の浅原才市さんの詩を紹介したいと思います。

寝るも 仏

起きるも 仏

覚めるも 仏

さめて 敬う なむあみだぶつ。

浅原才市さんのこのような気持ちで自然と口から「なむあみだぶつ」が出てくるといったことが、「雑毒」の混じっていないお念仏と言えるのではないでしょうか。

 

涅槃の真因は ただ信心をもってす(8月の法語カレンダー)

涅槃の真因は ただ信心をもってす

2019年の法語カレンダー8月号の言葉です。

涅槃という言葉を辞書で調べると《(梵)nirvāṇaの音写。吹き消すことの意》と出てきます。これは言語そのものの意味で、日本語の意味では

「煩悩 (ぼんのう) の火を消して、智慧 (ちえ) の完成した悟りの境地。」と出てきます。でも、この辞書の意味だけでわかる人がいるのでしょうか。なんとなく煩悩がなくなった世界は想像できるかと思います。でも実際に、煩悩が消えた世界は私たちにはどのように見えて、私たちはどのように感じるのでしょうか。これを想像できる人はいないと思いますし、説明できる人もそうはいないと思います。

話は脱線しますが、ある有名な料理家の人のインタビューを読んだことがあります。

その料理家の人に「先生、この世界で一番美味しいと思う料理なんですか?」と記者が質問しました。すると「その瞬間に食べたいと思って、その人が美味しいと思う料理です。私も北極で食べるアイスがとても美味しく感じるときもあるかもしれません、朝からこってりしたラーメンが食べたいときもあるかもしれません。」と答えられました。おそらく記者はフランス料理や中華料理といった答えが欲しかったのでしょう。私はこの記事を読んで深く関心したことを覚えています。美味しいと思うものはそれぞれ個人で異なりますし、またそれはタイミングによっても変わってきます。さらに言えば料理の味を説明だけで完璧に伝えることは著名な料理評論家の人でも難しいことではないでしょうか。

涅槃の話でもこれは当てはまるのではないでしょうか。まず、煩悩も人それぞれで異なりますし、タイミングによっても異なります。また、悟りを体験した人もかなり少ないでしょうし、たとえ体験したとしてもそれを口で説明するのは無理難題であるのは確かでしょう。

煩悩も十人十色であってどんな煩悩であっても対応できる修行は恐らくないでしょう。ひとつひとつの煩悩をまさしくシラミ潰しのようになくしていくなんてことは私たち凡人にはとても不可能だと思います。なので、私たちは自身の力で煩悩を一つずつ潰して涅槃を目指すより、ただただ阿弥陀様の力を頼りにすれば良いと思います。今月の法語にもあるように「ただ信心をもって」いれば私たち凡人でも涅槃に近づけるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

浄土真宗のならいには 念仏往生ともうすなり(7月の法語カレンダー)

 

浄土真宗のならいには 念仏往生ともうすなり

今日は7月の法語のお話をしたいと思います。

今日は榎本栄一さんの「木の上」の詩を紹介したいと思います。

うぬぼれは 木の上から ポタンと落ちた

落ちたうぬぼれは いつのまにか また 木の上に登っている

真宗で考えると榎本さんの「うぬぼれ」というのは自力での悟りのことを言っているのではないかと思います。自分では悟りを得たとその時は思っていても、すぐにその悟りは様々な欲望に覆い尽くされてしまいます。なのでまた「うぬぼれ」を木から落とすために修行を行なうといった繰り返しになります。

親鸞聖人の書かれた正像末和讃でも

三恒河沙の諸仏の

出世のみもとにありしとき

大菩提心おこせども

自力かなわで流転せり

とあり、自力での悟りがどれほど果てしないものかを表現されいます。

修行というものをテレビや漫画などで見ると断食をしたり、滝に打たれたりすると言ったものが描かれています。仏教でもこのような修行を行うこともあります。お釈迦様も苦行といわれる修行を行っていましたし、親鸞聖人も若き日は比叡山で堂僧として厳しい修行を行っていました。このような修行を行なって悟りを開こうとする、このような道を「諸行往生」といいます。それに対する言葉が、今月の法語に出てくる「念仏往生」となります。「念仏往生」は言葉のとおり、お念仏によってお浄土に生まれさせていただく、ということになります。お念仏を頼りにするということはつまり阿弥陀様を頼りにするということです。ところが「諸行往生」では自分自身を頼りにしようとしています。自分自身の力で悟りを開くことができる方であればその道を進んでも良いでしょう。でも私たち凡人はほとんどそのような道を進むことはできません。そのため阿弥陀様を頼りにする「念仏往生」の道を歩んでもよいのではないでしょうか。

 

 

無碍の光明 信心の人を つねにてらしたもう(6月の法語カレンダー)

無碍の光明 信心の人を つねにてらしたもう

2019年の法語カレンダー6月号の言葉です。

無碍光というと阿弥陀様のお力を光で示したものの一つですべてのものを照らし出すそのような光です。この光はどんなものでも遮ることはできません。そのような光が常に照らすのは信心を持つ人です。阿弥陀さまの救いのお力も私たち凡夫がそのお力に気づき、頼りにしなければ、そのお力を発揮できません。この「無碍光」という言葉は私たちがとてもよく目にする十字名号の中にも入っています。お家のお仏壇のお脇掛けが十字名号の方は毎日、見ていると思うのですが、改めて十字名号のご紹介をします。十字名号は「帰命尽十方無碍光如来」であります。この意味を簡単に申しますと、あらゆる方向を無碍の光で照らし出す阿弥陀様を頼りなさい、となります。今月の法語はこの十字名号の意味に近いのではないでしょうか。今月の法語ではさらに、「信心の人を」という言葉が中に入れ込んであります。

ちょっと話は変わりますが、医療の話で、「プラシーボ効果」というものを紹介したいと思います。日本語では偽薬効果と訳することが出来ます。病気の人にお医者さんが、薬だよと言って砂糖を薬の形にしたものを渡して飲んでもらうと、一部の患者さんは実際に病気が治ってしまうという現象のことです。「病は気から」という言葉もありますが、実際に医学的に認められているそうです。

お医者さんが出す薬は当たり前ですが私たちの体に作用して、病気を治そうとしてくれます。そこに私たちが薬が病気を治してくれる、病気を治したいという気持ちが強ければより薬の効果は強くなるのではないでしょうか。

今月の法語には「信心の人を」という一節が出てきますが、この「プラシーボ効果」のように、阿弥陀様を信じよう、救われたいと望む心を持つ人、つまり「信心の人」であれば、阿弥陀様は常に照らし出して、「信心の人」を救おうとして下さっております。なので、私たちは「信心の人」であるような毎日を過ごすべきではないでしょうか。

 

十方の如来は 衆生を一子のごとくに 憐念す(5月の法語カレンダー)

十方の如来は 衆生を一子のごとくに 憐念す

2019年の法語カレンダー5月号の言葉です。

名号(みょうごう)とは「南無阿弥陀仏」のことです。南無がインドの「ナマス」の発音を漢字に当てたもので、「ナマス」は「信頼」を意味する言葉ですから「南無阿弥陀仏」とは、「阿弥陀様を信頼します」という私の信心を表しています。煩悩一杯の愚かな私を我が子のように憐れんでくださる阿弥陀如来様のお心が私に届き、そのお心に頷く心(信心)が真実であれば、自然と「ナンマンダブツ」のお念仏が出てくださいます。 (法語解説・住職)

四方八方という言葉があるように東西南北の4つの方向に、北東などそれぞれの間を足して八方向、そして上下を足して十方向となります。これですべての方向を表していることになります。衆生とはこの世界にいる私たち、すべての人間のことです。つまり、阿弥陀様はどんな場所にいるどんな人間でも一人ひとりを自身の子供のように思い、救い取ろうとしている、このような内容になるのではないでしょうか。

よく真宗では阿弥陀如来様を親として表現されることが多いです。これは、よく阿弥陀様の「摂取不捨」のお気持ちを表されていて、現代の私たちでも大変わかりやすく「あ、あそうか」となるとても良い表現ではないかと思います。

また親鸞聖人のご和讃では 

子の母をおもふがごとくにて仏を憶すれば

とも書かれております。なので、私たちは阿弥陀様を母のごとく慕うことでその阿弥陀様の思いに答えることができるとなるでしょう。妙好人の浅原才市さんは

なむあみだぶつ なむあみだぶつ 念仏は 親の呼び声 子の返事

という言葉を残しております。とても小さい、幼稚園児ぐらいの子供のことを考えてください。それぐらいの子供だと「お母さん」「かぁちゃん」「まま」と呼び方は様々ですが、母を呼ぶことに深い意味はないでしょう。子供は笑顔のときも、涙を流すときも母のことを呼びながら母の胸に飛び込む、そんな様子を想像するのは簡単でしょう。大人になった私たちが「なもあみだぶつ」とお念仏する時、この母を呼ぶような子供のように嬉しい時も悲しいときもただただ阿弥陀様のお名前を呼ぶような気持ちでお念仏するのが良いのではないでしょうか。このことが住職の法語解説にもあった自然と口からお念仏が出てくるということでしょう。

真実の信心は かならず 名号を具す(4月の法語カレンダー)

真実の信心は かならず 名号を具す

2019年の法語カレンダー4月号の言葉です。

名号(みょうごう)とは「南無阿弥陀仏」のことです。南無がインドの「ナマス」の発音を漢字に当てたもので、「ナマス」は「信頼」を意味する言葉ですから「南無阿弥陀仏」とは、「阿弥陀様を信頼します」という私の信心を表しています。煩悩一杯の愚かな私を我が子のように憐れんでくださる阿弥陀如来様のお心が私に届き、そのお心に頷く心(信心)が真実であれば、自然と「ナンマンダブツ」のお念仏が出てくださいます。 (法語解説・住職)

真実の信心とは、なんでしょうか。真実の信心があるということは偽りの信心があるのでしょうか。「真実の信心」は私たちがよくお読みする正信偈にも出てきます。

摂 取 心 光 常 照 護

已 能 雖 破 無 明 闇

貪 愛 瞋 憎 之 雲 霧

常 覆 真 実 信 心 天

阿弥陀様の私たちを必ず救ってくださるというその力は私たちの心の闇を綺麗に取り払ってくれます。そのように私たちを救ってくれようとしている阿弥陀様のお力も私たち自身が自分の心に分厚い雲をかけてしまっていては届くものも届かなくなります。この私たちが生み出す分厚い雲が覆い隠してしまうものが真実の信心であると書かれています。真実の信心でもちょっと油断しているとすぐに曇ってしまいます。もし偽の信心(擬信:自力で得たと思っている信心)であった場合は、その信心はどれほど弱いものになるかは想像しやすいでしょう。

榎本栄一の「こころの蛇」という詩を紹介したいと思います。

世の中を

あたまさげて

通りたいと願いながら

私のこころの蛇は

またしても鎌首をもたげる

私たちはこの世をうまく渡りたいと、色々と気持ちをまわしますがちょっと油断すると心の中では、わがままな自分自身の心がたびたび顔を出します。そんなときは自分がそのようなわがままな気持ちになっていることに気づくことが第一歩ではないでしょうか。

そして、私たちはもし真実の信心の断片が見えても、それを覆い隠す雲は絶えず湧いてきますので、その雲の存在に気づいて、日々日々丁寧にお念仏することが大切になります。なので、住職の解説でもあったように自然と「ナンマンダブツ」と言える様な真実の信心であれば大変心強いものでしょう。

 

弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまわり 法身の光輪きわもなく 世の盲瞑をてらすなり

私自身の話なんですが、夜に起きてトイレに行こうとして、眼鏡を探しておりました。いつもと同じ枕元に置いたはずなのになぜか見当たらない。探そうとして周りもウロウロしていると足の裏に激痛が走りました。もうお分かりでしょうが足を退けるとぐちゃっと潰れた眼鏡と皮が捲れた足の裏がありました。枕元に電気のリモコンがあったのに横着をした結果、眼鏡の修理代一万円と一週間の足裏の痛みです。

ここからが本題です。まずご讃題として和讃をあげさせていただきます。

弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまわり 法身の光輪きわもなく 世の盲瞑をてらすなり このご和讃は三帖和讃の一つ、浄土和讃の最初のご和讃です。

法蔵菩薩様が阿弥陀様になられてからとても長い時間が経ちました。現代でもその阿弥陀様から放たれる光は変わらずに、この世の煩悩だらけの私たちを明るく照らしてくれるでしょう。

このような内容に現代風に訳することができます。十劫はとても長い時間を表していて、例えるならエアーズロック1000個分の石を、百年に一度布で撫でて磨り減ってなくなるぐらいの時間と言われています。具体的にはわかりませんがとても長い、果てしない時間ということは想像できます。また、ご和讃でも良く出てくるのが阿弥陀様の救いの力を光として例えることです。このご和讃ではそれだけ長い時間、阿弥陀様はそのお力で私たちをお救い続けていることを表しているのです。昔は電気などありませんでしたから、暗闇というのはただただ怖いものであったに違いありません。それような闇を照らしてくれる光はどれほどありがたいものだったかは想像しやすいでしょう。 ここで妙好人の前川五郎松さんの言葉を紹介させてもらいます。『「暗闇の中で宝があっても、つまづくだけや」と。

 燈明(あかり)をつけてもらうだけや、何にも変らぬ、見える見える、見えると安心や。』 私たちは日々、煩悩の中で迷い、不安な気持ちでおります。その気持ちの中では心に大切なものがあっても、それに気づくことは難しく、大切なものであっても煩悩になりえるということでしょう。そのような私たちでも阿弥陀様のお光があれば、こころの暗闇はすっと消えて、その中にあるこころの宝物に気づけるでしょう。なので私たちは阿弥陀様が私たちを照らし出そうとしていることに気づいて、心の闇を包み隠さず阿弥陀様に照らしてくださいと素直な気持ちでいることが大切なことではないでしょうか。

お仏壇のご本尊様、具足

まず、お仏壇の中心にあるのがご本尊です。

ご本尊には阿弥陀如来像を安置します。阿弥陀如来像には絵像、木造、鋳像など様々なものがありますが、どちらのご本尊様でもよろしいと思います。例えば絵像では文字通り阿弥陀様のお姿を絵で表したもので中心に阿弥陀様が描かれており、背後に後光(光の線)が阿弥陀様を中心に差している様子が描かれます。

絵像ではなく、木像や鋳像の場合でも多くは後光が装飾としてあしらわれている場合が多いです。

続いてご本尊の両脇にはお脇掛けと言われるものを安置します。

お脇掛けには2つのパターンがあります。ひとつめは九字名号と十字名号の二つがお脇掛けの場合です。この時はご本尊の向かって右に十字名号を、向かって左に九字名号を安置します。

ふたつめは九字名号十字名号合幅と親鸞聖人御真影像の場合です。この時はご本尊の向かって右に御真影像を、向かって左に名号の合幅を安置します。

次にご本尊の前、須弥壇といいますが、こちらの説明をしていきます。

須弥壇の上に置くのはお仏飯と華瓶(けびょう)です。ご本尊の正面にお仏飯をその両脇に華瓶をお供えします。もし、お脇掛けが御真影像だったときはそちらにもお仏飯をお供えします。

お仏飯のお供えの仕方や華瓶のどのようなものを供えるかはまた別の機会にお話ししたいと思います。

須弥壇の一段下には供笥(くげ)と飾り香炉を置きます。供笥はお供えものを置くための台で左右一対になっています。供笥の間には飾り香炉を置きます。飾り香炉と香炉は異なるものなので注意しましょう。飾り香炉は蓋が付いており、蓋には麒麟や獅子など装飾がされているものもあります。

その下段には前卓を置きます。前卓の上には三具足を配置します。三具足は燭台、香炉、花瓶(かひん)の三点セットであり、香炉を真ん中にその向かって右に燭台を、向かって左に花瓶を置きます。燭台は鶴と亀の装飾がされているものもありますが、その場合は頭が香炉の方に向くように配置します。香炉が三足だった場合は足の一本が正面を向くような形で配置します。

通常は三具足で構いませんが、年季法要や報恩講式などを執り行うときは五具足を用いるのが正式なものです。五具足は三具足に燭台と花瓶を一つずつ追加したもので中央に香炉、その両隣に燭台を、そのさらに外側に花瓶を配置します。ただしお仏壇の大きさなどもあるので無理に五具足を揃える必要はありません。