令和元年 除夜の鐘

令和最初の除夜の鐘のご案内 (令和元年12月31日23時45分~)

除夜の鐘の「除夜」は、大晦日の夜のことです。 大晦日は一年の最後の日で、古い年を除き去り、新年を迎える日という意味から「除日(じょじつ)」といい、その夜なので「除夜」や「除夕」といいます。 除夜の鐘で鐘が撞かれる回数は、人間の煩悩の数が108あることから、それを取り除くために108回とするお寺も多いです。

隨願寺では毎年、大晦日の23時45分から鐘を打ち始めます。多くの方に参加していただきたいので回数にはこだわらず、お寺に来られた方皆様に鐘を打ち鳴らしていただきます。参加していただいた方には記念品にお菓子をお配りしています。

どなた様でも参加いただけますのでお気軽にお寺に来てください。

人も草木も虫も同じものは一つもない おなじでなくてみな光る(2020年カレンダーの1月)

人も草木も虫も同じものは一つもないおなじでなくてみな光る

これは榎本栄一さんの詩です。

今日はまずお花を紹介させていただきたいと思います。ザゼンソウというお花なのですが、皆さんご存知でしょうか。有名なミズバショウに似ていますが、その見た目が座禅している人に見えるためこのような名前になりました。ありがたい名前の植物ですが、もうひとつ特徴があります。このお花はとても臭いらしいです。なので英語の名前はスカンクキャベツという名前だそうで、日本語の名前とはだいぶ違う印象を受けるのではないでしょうか。次にこの魚です。タナカゲンゲという魚なのですが、産地の鳥取ではババァと呼ばれています。見た目がお婆ちゃんに似ているからこのように呼ばれているそうです。実はこの魚は見た目はグロテスクですが、冬の名物で鍋にするととても美味しい魚だそうです。

ザゼンソウやタナカゲンゲのように名前や見た目によって受ける印象と実際に見て、体験するのではその印象は大きく異なります。ザゼンソウやタナカゲンゲも生き物のとしてただただ生きているだけなのに人間が勝手に価値観を決めて、しかもその印象はころころと変わってしまうのです。

私たち普段の生活の中でも、このようなことはよくあると思います。人間関係でも、笑ったり、怒ったり、ころころ評価を変えたりして身勝手に生きているのは仕方がないのではないでしょうか。それでもこの世界で、ひとりきりで生きていくのは不可能なのです。なので、そのような世界でバランスをとって生きているのです。また、そのバランスと取ることをストレスに感じてしまうそのような人生を歩んでいるのです。

ここでご和讃を紹介したいと思います。

釈迦の教法おほけれど
天親菩薩はねむごろに
煩悩成就のわれらには
弥陀の弘誓をすすめしむ

親鸞聖人は、ご和讃の中でお釈迦様の教えは沢山あるが煩悩の多い私たちには、阿弥陀様のお救い、つまりお念仏が良いでしょう ということで残されました。最後に有名な有名な金子みすゞさんの詩を紹介したいと思います。

 

私が両手をひろげても、

お空はちっとも飛べないが、

飛べる小鳥は私のように、

地面を速く走れない。

 

私がからだをゆすっても、

きれいな音は出ないけど、

あの鳴る鈴は私のように、

たくさんな唄は知らないよ。

 

鈴と、小鳥と、それから私、

みんなちがって、みんないい。 金子みすゞ

悲しみの深さのなかに 真のよろこびがある(2020年カレンダーの表紙)

  悲しみの深さのなかに 真のよろこびがある

これは2020年法語カレンダーの表紙の言葉です。これは瓜生津隆真さんが残してくださった言葉です。

とても悲しい思いをした人にこそ、本当の喜びが分かるというのも確かかもしれません。多くの人にとっては肉親の死が一番の悲しみだと思います。自分の親を送る、配偶者を送ることで悲しみ、そしてそこでしか得られない経験を積んでいくことになるのでしょう。人によっては自身の子を先に送るというとても悲しい経験をされる方もいて、それを乗り越えて、強く人生を歩んでいくような方も多くいます。
では、そのような悲しい思いをしなければ、真の喜びはわからないのでしょうか。そのようなことはないと思います。悲しみも喜びも相対的なものと考えてもよいのではないでしょうか。
例えば今まで家族が亡くなっていない子供のペットの金魚が亡くなったときに、その子供はとても悲しい思いをするものでしょう。子供にとっては例え小さな金魚の命であっても、人生の中でもっとも悲しい体験になると思います。子供はその後の人生では命の大切さを少しづつ理解していくでしょうし、喜びをより深く味わえるようになります。私達自身の経験でも皆さん思い当たることがあると思います。このような経験を経て私達は少しづつ強くなっていきます。

 

尽十方の無礙光は
無明のやみをてらしつつ
一念歓喜するひとを
かならず滅度にいたらしむ

 

これは親鸞聖人が高僧和讃の中で曇鸞さんを讃えたご和讃のうちの一つです。
このご和讃では、阿弥陀様の無碍光のお力はすべての闇を照らし、その力をありがたく思う人は必ずお浄土に生まれさせていただく、ということになります。
このご和讃では阿弥陀様のお力を讃えつつ、その阿弥陀様のお力に会う条件を示してもらえました。その条件はその阿弥陀様のお力をただただ願い、その救いを喜ぶことでしょう。
しかし、この条件は簡単なようで大変難しいことです。このご和讃でもあるように、私達は無明の闇の中にいるということを自覚しなければならないと思います。その終わりのない闇の深さを感じれば感じるほど阿弥陀様の無碍光の有り難みを味わえるのではないでしょうか。この闇の存在、そして自覚が阿弥陀様のお救いに会える第一歩となると思います。

今月の法語のお話に戻りますが、私達大人がペットの金魚が死んでしまっても冷静に対応してしまうのではないでしょうか。でも決してそれに慣れてしまってはいけないと思います。小さな悲しみでもそれを一つ一つしっかり向き合っていけば、小さな喜びの価値はずっとずっと良いものになると思います。

 

真の知識にあうことは かたきがなかになおかたし(11月の法語カレンダー)

今日はとある漢字の読み方からお話ししたいと思います。「最中」と書いて何と読むでしょうか。ある高校生のお話なのですが、授業で現代文の教科書を音読する機会があったそうです。その読む文章は「最中(さなか)、健司はこう言った。・・・」という文章だったそうです。しかし、高校生は「最中(もなか)、健司はこう言った。・・・」と読みました。教室の中は、笑い声に包まれました。先生も一緒に笑うか思うと先生は「よく知っているな」と褒めてくれたそうです。この生徒は無意識にお菓子の「もなか」のことを思ってこう読んでしまったのに先生はなぜか褒めてくれました。そして先生は教室の生徒に「なぜお菓子のモナカとその時を表すサナカは同じ漢字なのか調べてみましょう」とみんなに宿題を出しました。この先生は、上手にこの高校生をミスを目立たないようにしてくれたのです。それ以来、この高校生はこの先生を慕うようになったそうです。

ところで「最中」を漢字辞典を引くと「さいちゅう」「さなか」「もなか」と三種類の読み方が出てきます。語源は「最も真ん中」という意味です。なんの真ん中かというと月の満ち欠けのことです。なので「最も真ん中」は満月ということになります。この満月の形に似ているお菓子なので最中というお菓子になったと言われています。

このことから先ほどの高校生が「モナカ」と読んでも意味合いはあまり変わりません。なので先生もよく知っていると言ったのでしょう。

私たちは知識というと「知識が豊富である」といったような物事をよく知っていることを知識と言ったりします。仏教における知識というと仏教の教えに精通していて、私たちを導いて下さる先生のような人のこと言います。もともとはこの先生のことを「善知識」としていましたが、知識だけでも同じ意味合いを表すようになりました。

真の知識にあうことは かたきがなかになおかたし

これは11月の法語カレンダーです。もともとは高僧和讃の一首で、本当に仏教のことに精通し、導いてくれる先生に出会うことはとても難しいことであるという内容です。高僧和讃は親鸞聖人がご自身を導いてもらった7人の偉大なお坊さんのことを読んだ和讃です。今月の法語カレンダーの一節はその中で、法然上人のご和讃の一首です。親鸞聖人は約20年間比叡山で仏教の修行を続けていましたが、その中で「真の知識」と言える先生に出会うことは出来なかったのでしょう。そして比叡山を降りてから法然上人と出会うことになり、この人こそ親鸞聖人にとって「真の知識」と言える人だと感じ、法然上人について仏教をより学ぶことになりました。その嬉しさ、そしてそれまでの親鸞聖人ご自身の道のりを残されたのが今月の法語になります。

信心あらんひと むなしく生死にとどまることなし(12月の法語カレンダー)

仏教では生老病死が四苦として挙げられます。この生きていることも苦しみ、老いることも苦しみ、病気になることも苦しみ、死ぬことも苦しみとしてこの四苦になっています。人はこれらの苦しみからなんとかして逃れたい、会いたくないと思います。これら四苦の中で生きることの苦しみ以外は、多くの人が想像できることでしょう。また生きることの苦しみも自殺してしまう人がいることを考えれば死ぬことよりも生きていることの方が辛いこともあるのでしょう。

しかし、ほとんどの人は「生きていること」に執着してしまうのです。大会で入賞した川柳に「三時間 待って病名 加齢です」「延命は 不要と書いて 医者通い」というものがあります。笑い話ですが確かなことでしょう。誰であっても老いにも、病気にも抵抗するのは同然です。これは病気になった本人以外の家族であっても同じように感じてしまいます。このように感じてしまうのは、その先にある「死」への漠然とした恐怖もあると思います。

ここで今月の法語カレンダーの言葉を紹介させていただきます。

信心あらんひと むなしく生死にとどまることなし

この言葉を解釈しようとすると大変難しいと思います。言葉のまま捉えれば「信心を持っている人は、生死に関して悩みを持つことはない」となりますが、それだけの意味ではないでしょう。信心の定義、生死の定義、【あらんひと】【とどまることなし】という言葉の捉え方など大変深く考えさせられる内容だと思います。

ただし信心を持つことの大切さを表しているのは間違いないでしょう。

 

わたしゃ 困ったことがある

胸に歓喜の あげたとき

これを書くこと できません

なむあみだぶつと 言うて書け

 

これは妙好人の浅原才一さんが残した言葉です。才一さんはご人身で阿弥陀様のご慈悲を感じたとき、つまり信心の欠片が見えたときにその嬉しさ、そのありがたさをなんとかして記録として残そうとしても、その信心の欠片はどう表現してよいかわからないこと偉大なものであったのでしょう。なので、ただただ「なむあみだぶつ」と書いてその信心の欠片を見失わないようにしたのではないかと思います。

「信心」というは すなわち本願力回向の信心なり(10月の法語カレンダー)

「信心」というは すなわち本願力回向の信心なり
浄土真宗では信心という言葉がよく出てきますし、聞法の機会に多く参加される方は信心がどれほど大切なものであるか分かっておられると思います。今月の法語カレンダーでは改めて信心のお話が出てきますし、本願力回向の信心であると強調されています。このことは阿弥陀様の力、他力を信じようとしていること自体が自力に頼っていることだからです。本願力回向の信心、これら目指すところですがこの信心は決して自力ではなく、この信心すらも阿弥陀様に与えてもらえるものです。
回向という言葉の意味だけでは「行いが回り向かう」という意味になります。浄土論という書物には往相回向と還相回向の二種類に回向は分けられると書かれています。往相回向は自身の善い行いによって他人と共々お浄土に向かう。還相回向は阿弥陀様のお力によってお浄土に向かう。と簡単に説明させていただきます。親鸞聖人はこの往相回向自体を否定しているのではなく、この往相回向も阿弥陀様のお力だと残されました。
お話しは変わりますが、私は普段獣医師としても働いています。犬と猫の考え方の違いを聞いて確かにそうだと感じたものがあったので紹介します。犬「彼らは餌をくれて、撫でて愛してくれる。彼らは神に違いない」猫「彼らは餌をくれて、撫でて愛してくれる。私は神に違いない」どうでしょうか。犬と猫両方飼ったことがある方はうんうんと思っていただけるのではないでしょうか。ワンちゃんと遊んでいて人間のほうが「遊んでくれてありがとう」と思っていてもワンちゃんも「遊んでくれてありがとう」と思っていることでしょうし、猫ちゃんと遊んでいて人間のほうが「遊んであげた」と思っていても猫ちゃんも「遊んであげた」と思っているでしょう。この逆もあり得ると思います。これは人間にも言えることで良かれと思ってやっていることでも本当に相手のためになっているか分かりませんし、それを良い行いだと私たちが勝手に決めているとも言えます。もちろん、良い行いをすることに意味がないわけではないですが、良い行いをしてやったと見返りを求める慢心にこれほど愚かなものはないでしょう。
なので今月の法語にもあるように他力の信心を得ることができたと思っていても、ほとんどの場合は慢心に終わってしますことでしょう。なので、阿弥陀様のお救いに会うためにも本願力回向の信心こそを私達は求めなければなりません。そのためにお念仏や聞法の機会を増やし、仏法への理解を深めることも大切になってくるのでしょう。

1.〜縁起〜 導入編 いのちと縁起について

今回からは「仏教における生命感」ということでお話していきたいと思います。仏教と「いのち」ということは昔からよく話されてきました。仏教と「いのち」のお話をするときにはやはり縁起のことをお話しなければなりません。縁起というと一般的には縁起がいい、縁起が悪いといった使い方をすることが多いです。この使い方は日本で独自に生まれた言葉の使い方です。もともと縁起は仏教に由来する言葉で因縁生起という言葉から縁起が生まれたと言われています。因縁生起は「縁を因として、生まれ起こる」という意味になります。これは仏教の最も根本的で大事な考え方で、仏教の真理といっていいでしょう。この因縁生起は〈此有るが故に彼有り。此無きが故に彼無し〉あるいは〈此生ずるが故に彼生ず。此滅するが故に彼滅す〉という言葉で表されることが多いです。縁起というのは物事のつながりを表しています。しかし、ただのつながりではなく原因と発生に必ずの順序関係はなく、2つが関連しあっていることが重要です。原因があったから発生したというよりも、原因と発生は互いに関連しあっているということです。よく卵が先か、鶏が先かという哲学的な議論がなされることがあります。生物学の進化論でこの議論について考えてみると、卵が先となります。これは遺伝情報的に先に形成されるのは卵だからです。メスの鶏の体内にオスの鶏の精子が入り、卵子と受精します。この受精した卵子の周りに黄身、白身、卵の殻と覆われて卵が完成します。つまり、両親の遺伝情報が一つになり、新たな遺伝情報が完成するのは卵が先だからです。神学的な考え方のうちキリスト教学で言えば創世記第一章には卵より鶏が先というふうに思われるような記述があります。しかしこのような議論も縁起の観点から見えればこの議論自体に意味はないと言えます。卵を生む親鳥がいて初めて卵は生まれますし、卵から雛が成長したからこそ親鳥が生まれます。必ずの順序関係は必要ありません。あるひととき、一瞬だけ見れば卵であるし、雛であるし、親鳥であります。ここまで話してきた通り仏教の生命感を考えるには縁起は不可欠になります

涅槃の真因は ただ信心をもってす(8月の法語カレンダー)

涅槃の真因は ただ信心をもってす

2019年の法語カレンダー8月号の言葉です。

涅槃という言葉を辞書で調べると《(梵)nirvāṇaの音写。吹き消すことの意》と出てきます。これは言語そのものの意味で、日本語の意味では

「煩悩 (ぼんのう) の火を消して、智慧 (ちえ) の完成した悟りの境地。」と出てきます。でも、この辞書の意味だけでわかる人がいるのでしょうか。なんとなく煩悩がなくなった世界は想像できるかと思います。でも実際に、煩悩が消えた世界は私たちにはどのように見えて、私たちはどのように感じるのでしょうか。これを想像できる人はいないと思いますし、説明できる人もそうはいないと思います。

話は脱線しますが、ある有名な料理家の人のインタビューを読んだことがあります。

その料理家の人に「先生、この世界で一番美味しいと思う料理なんですか?」と記者が質問しました。すると「その瞬間に食べたいと思って、その人が美味しいと思う料理です。私も北極で食べるアイスがとても美味しく感じるときもあるかもしれません、朝からこってりしたラーメンが食べたいときもあるかもしれません。」と答えられました。おそらく記者はフランス料理や中華料理といった答えが欲しかったのでしょう。私はこの記事を読んで深く関心したことを覚えています。美味しいと思うものはそれぞれ個人で異なりますし、またそれはタイミングによっても変わってきます。さらに言えば料理の味を説明だけで完璧に伝えることは著名な料理評論家の人でも難しいことではないでしょうか。

涅槃の話でもこれは当てはまるのではないでしょうか。まず、煩悩も人それぞれで異なりますし、タイミングによっても異なります。また、悟りを体験した人もかなり少ないでしょうし、たとえ体験したとしてもそれを口で説明するのは無理難題であるのは確かでしょう。

煩悩も十人十色であってどんな煩悩であっても対応できる修行は恐らくないでしょう。ひとつひとつの煩悩をまさしくシラミ潰しのようになくしていくなんてことは私たち凡人にはとても不可能だと思います。なので、私たちは自身の力で煩悩を一つずつ潰して涅槃を目指すより、ただただ阿弥陀様の力を頼りにすれば良いと思います。今月の法語にもあるように「ただ信心をもって」いれば私たち凡人でも涅槃に近づけるのではないでしょうか。

 

永代経

永代経とは

間違えやすいことですが永代経は「永代供養」とは全く異なります。よく永代供養といいますとお墓や納骨堂で管理しているお寺のお坊さんがご家族に代わってお世話をするといったもののことを言うと思います。それに対して永代経(永代経法会)は「永代にわたってお経をあげる法会」です。言葉でいうと簡単ですが、その意味はお経をいただく人々が私たちだけにとどまらず、子々孫々と続いて行くことを願っての法会です。私達が毎日読んでいるお経は古代インドで始まり、中国を経て、千年以上前の日本に伝わって来ました。仏教を生んで育ててもらったインド人、漢字のお経という形で伝え、残してくれた中国人、日本での発展、お念仏の文化を広めてくれた日本人。このように昔から多く人々がいたからこそ私達は今日このときにお念仏することができているのです。

そのため、永代経ではおつとめの後、必ず法話がもたれます。これは法話の聞法の機会を重ねることで仏教そしてお念仏への理解を深めることが重要だからです。お念仏をより深く味わうことができれば今、現世で迷う我々の心にお念仏は道を示してくださるのではないでしょうか。ここまでお話した通り、永代経は祖先への単なる供養ではありません。ご先祖様がいたから我々がここに生活できていることは確かですが、それを結んでくださった宿縁、法縁を喜び、仏縁の場がより広がる願いを込めて営まれるべき法会です。

多くのお寺の永代経ではその度に異なった施主様が中心となって営まれます。施主様はその永代経までにご家族が亡くなったお家の方が務めることが多いです。これは永代経を通してそのお寺のお同行皆さんに縁を結び、また永代経に参加してもらったお同行皆さんに、施主様は仏縁の場を提供するといった考え方から来ています。

なので、参加されているお同行の方はその都度の永代経の施主様にそのような場を開いてもらってありがとうという気持ちは忘れずに、新たにお念仏していくお同行が増えたことを喜びまた暖かく迎えていただければ施主の方は安心してこれからの法要にも参加してくださるでしょう。

隨願寺での永代経

毎年、春と秋に予定しています。例年は13時30分から勤行を行います。
永代経の申し込みは二週間前までにご連絡ください。詳細を説明させていただきます。
次の永代経までにご親族にお悔やみがあったお家が申し込まれることが多いですが、どなた様でも申し込みいただけます。

智慧の光明はかりなし 有量の諸相ことごとく 光暁かぶらぬものはなし 真実明に帰命せよ

突然に 医者が優しく なる不安 (シルバー川柳)

今までは血圧が高いから塩分に気をつけろ とか メタボだから運動しろ  とか言われていたけど、また検診に行ってその結果を聞きに行くと医者が優しい。なにかいつもと違う。もしかしたら大変重い病気で余命がわずかしかない。と言われるかもしれない。(そのような内容の川柳です)。多分、この患者さんはお医者さんの注意をあまり聞いていなかったのでないでしょうか。後ろめたいことがあるのに、急に優しくされると何か不安になるものでしょう。逆に食事も気にかけ、運動もしっかりした生活をしていて、同じように優しくされたら私たち素直に受け止め安心します。同じ優しさなのに私たちの行動、気持ちで受け止め方が変わってしまうというお話です。

こちらの川柳も同じような気持ちが描かれています。

智慧の光明はかりなし 有量の諸相ことごとく

  光暁かぶらぬものはなし 真実明に帰命せよ

こちらの和讃では

阿弥陀様の智慧の功徳を表している光に限りはない。その光はこの世界でいるすべてのもの明るく照らし出そうとしている。なので、その真実を照らし出す阿弥陀様の光を頼りとして、ただただあなた自身を委ねなさい。

このような内容になると思います。浄土和讃の多くには「帰命せよ」という言葉が多く出てきます。帰命とは簡単に言うとお任せする、頼りにするといった意味です。また私たちがよくお唱えする「南無」も同じような意味合いで、インドの言葉「ナマス」から来ています。この帰命とは私たち真宗門徒がよくお唱えする正信偈の始まりも「帰命無量寿如来」から始まっています。先ほどは簡単に頼りにすると言いましたが、「帰命」は全幅の信頼を置いた上で頼りにするといった意味合いがあります。阿弥陀如来様は「摂取不捨」のお誓いを立てて如来になられましたので、私たちはただただ疑いの心もなく阿弥陀様を頼りにしてよろしいのです。阿弥陀様はただただ寛大なお気持ちで私たちを救おうという優しいお気持ちを持っているので、私たちは例え後ろめたいことがあっても何も疑うことなくただただ阿弥陀様を頼りにして「帰命」すればよいのではないでしょうか。