お盆(歓喜会)

 

お盆の解釈は同じ仏教でもそれぞれの宗派によってかなり解釈が異なります。その中で浄土真宗におけるお盆についてお話ししたいと思います。浄土真宗ではお盆のことを歓喜会ともいいます。

まずお盆の由来ですが、中国の盂蘭盆経というお経から一文字取ってお盆となりました。この盂蘭盆経の内容から歓喜会と浄土真宗では呼ぶこともあります。簡単に言うお釈迦さまのお弟子さんのお母さんが地獄に落ちてしまったけれども、そのあと救われるという物語が書いてあります。

このお釈迦様のお弟子さんは目連さんというお坊さんで神通第一の目連と呼ばれていました。神通力というと離れたところにあるものを見たり、聞いたりすることができる。そのような力です。あるとき、この目連さんは自身の亡くなってしまったお母さんの様子を神通力を使って見てみよう思いました。すると目連さんのお母さんは餓鬼道と呼ばれる地獄に落ちていました。この餓鬼道という地獄は文字通り「飢え」が永遠と続くような地獄です。お母さんが地獄に落ちてしまった理由は盂蘭盆経には書かれていないのですが、他の記録だと飢餓の年、多くの子供が飢えで苦しんでいるときにお母さんは目連さんにだけ食べ物を与えていたので、この餓鬼道に落ちてしまったということで残っています。

目連さんは飢えで苦しんでいるお母さんに食事や飲みものを届けたいと思い、お供え物を供えるのですが、餓鬼道ではすぐに燃えて灰になってしまうのです。目連さんは何とかお母さんを救おうと思い、お釈迦様に相談しました。すると「7月15日に現世の多くの人に様々な食べ物を分け与えなさい」と指南してもらい、目連さんがその通りに実行するとお母さんは餓鬼道から抜け出すことができてお母さんは歓喜して踊ったということです。簡単ではございますが盂蘭盆経の内容はこのような内容になっています。

この盂蘭盆経の内容に中国で道教の流れが組みこまれ、さらに日本古来の祖霊信仰が合体して今のお盆になったと言われています。このことから世間一般ではお盆は亡くなった人のことを大切に思う、しいては先祖供養の機会であるということになっているのかと思います。

昔からお盆では地獄の釜の蓋が開く釜蓋朔日、先祖の魂が迷わないように迎え火、魂を送る送り火、先祖の行きと帰りの乗り物の精霊馬といった風習があると知られています。これらは風習はすべてお盆の期間にご先祖様が現世に帰ってこられて、またあの世にかえって行くと言われることから生まれてきた風習をいえます。

ここまでは日本におけるお盆の概要を説明させていただきました。

ここからは浄土真宗におけるお盆の解釈についてお話させていただきます。

まず、浄土真宗ではご先祖様は阿弥陀様のお力によって必ずお浄土に生まれていると考えます。ご先祖様たちはご自身が望まれて、お浄土で新たに生まれて、幸せな生活をしているご先祖様が現世に帰ってくるとはないとも考えます。なので釜蓋朔日、迎え火、送り火、精霊馬といったものはありえないことになります。なのでこれらの行事を浄土真宗の行事として行うことはありません。

では浄土真宗においてお盆とはどんな行事なのでしょうか。簡単に申しますと「ご先祖様に感謝する」ための行事と考えて構いません。もともとの盂蘭盆経の意味から考えても、お盆の最も本質的なところは私たちはご先祖様から続いてきた縁を確認し、それに感謝することが大切ではないでしょうか。なので盂蘭盆経の中で目連さんのお母さんが救われたのは目連さんが沢山お供え物をしたからではなく、様々な種類の多くのお供えを集めれるというそれだけ大変な思いをしてまでお母さんを救いたいという気持ちが形に現れただけで、お母さんを救ったのは目連さんの母への慈愛の心だったと考えます。今の私たちが存在しているのはご先祖様があったからで、また血縁はなくても過去を生きた何億人もの人がいたからこそ今の私たちがあります。そのことを確認できること、今の私たちが存在することはまさしく「歓喜」といえるのではないでしょうか。また、それら過去の人々をお浄土に導いてくださった阿弥陀様にも感謝し、また私たちを救おうとしてくださる阿弥陀様の存在に気づけることも「歓喜」とも言えます。なのでお盆にはそれらのことを味わいながらのお念仏、「南無阿弥陀仏」としていだだければ浄土真宗の僧侶の私にとってもそれは「歓喜」となります。

 

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