弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまわり 法身の光輪きわもなく 世の盲瞑をてらすなり

私自身の話なんですが、夜に起きてトイレに行こうとして、眼鏡を探しておりました。いつもと同じ枕元に置いたはずなのになぜか見当たらない。探そうとして周りもウロウロしていると足の裏に激痛が走りました。もうお分かりでしょうが足を退けるとぐちゃっと潰れた眼鏡と皮が捲れた足の裏がありました。枕元に電気のリモコンがあったのに横着をした結果、眼鏡の修理代一万円と一週間の足裏の痛みです。

ここからが本題です。まずご讃題として和讃をあげさせていただきます。

弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまわり 法身の光輪きわもなく 世の盲瞑をてらすなり このご和讃は三帖和讃の一つ、浄土和讃の最初のご和讃です。

法蔵菩薩様が阿弥陀様になられてからとても長い時間が経ちました。現代でもその阿弥陀様から放たれる光は変わらずに、この世の煩悩だらけの私たちを明るく照らしてくれるでしょう。

このような内容に現代風に訳することができます。十劫はとても長い時間を表していて、例えるならエアーズロック1000個分の石を、百年に一度布で撫でて磨り減ってなくなるぐらいの時間と言われています。具体的にはわかりませんがとても長い、果てしない時間ということは想像できます。また、ご和讃でも良く出てくるのが阿弥陀様の救いの力を光として例えることです。このご和讃ではそれだけ長い時間、阿弥陀様はそのお力で私たちをお救い続けていることを表しているのです。昔は電気などありませんでしたから、暗闇というのはただただ怖いものであったに違いありません。それような闇を照らしてくれる光はどれほどありがたいものだったかは想像しやすいでしょう。 ここで妙好人の前川五郎松さんの言葉を紹介させてもらいます。『「暗闇の中で宝があっても、つまづくだけや」と。

 燈明(あかり)をつけてもらうだけや、何にも変らぬ、見える見える、見えると安心や。』 私たちは日々、煩悩の中で迷い、不安な気持ちでおります。その気持ちの中では心に大切なものがあっても、それに気づくことは難しく、大切なものであっても煩悩になりえるということでしょう。そのような私たちでも阿弥陀様のお光があれば、こころの暗闇はすっと消えて、その中にあるこころの宝物に気づけるでしょう。なので私たちは阿弥陀様が私たちを照らし出そうとしていることに気づいて、心の闇を包み隠さず阿弥陀様に照らしてくださいと素直な気持ちでいることが大切なことではないでしょうか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA