わがこころよければ 往生すべしとおもうべからず(9月の法語カレンダー)

わがこころよければ 往生すべしとおもうべからず

今月の法語はとても簡単に申せば「現世で良いことをしてもお浄土に生まれるとは限らない」と言う事です。笑い話ですがある夫婦のお話です。ある日、奥さんがとても機嫌がよかったそうです。そこで旦那さんは「何かいいことでもあったの?」と訊ねました。すると奥さんは「実は今日、友達と占いに行ったの」と答えました。「何かいい占いが出たの?」と聞くと「そうじゃないんだけど、占い師さん曰く私の前世はワカメらしいの」「ほー」「でも、前世でとても良い行いをしたからこんな美人に生まれられたんですって」「ほーほー」「納得いってないみたいじゃない」「だってお前、ワカメがどんな良い行いができるんだよ」

これは笑い話ですが、良いことをするといい見返りがあると思うのは人の常であります。人間関係でもギブ&テイクを求めるのはよくある事で「社会的交換理論」と言うそうです。親切な行いをしてもそれに見合うお返し(言葉や物)がなければ不満に思ってしまいます。親鸞聖人は「雑毒の善」という言葉を残されました。善い行いであっても、その親切の中に見返りを求めるようなものでは「雑毒」が混じってしまいます。私たちは信仰の中に置いてもついつい「雑毒」が混じってします。これだけ難しいお経の本を読んだのだから、偉い先生のお話を沢山聞いたのだから、当然お浄土に生まれるだろうと思ってしまいますがこれでは真宗の流れからは外れてしまいます。熱心にお念仏したりお聴聞していだくのは私たちお坊さんからしたらとても嬉しいのですが、お念仏することやお聴聞することが目的になってはいけません。あくまで目的は阿弥陀様の救いに会うことであって、お念仏やお聴聞はそのきっかけに過ぎないのです。

最後にお念仏者の浅原才市さんの詩を紹介したいと思います。

寝るも 仏

起きるも 仏

覚めるも 仏

さめて 敬う なむあみだぶつ。

浅原才市さんのこのような気持ちで自然と口から「なむあみだぶつ」が出てくるといったことが、「雑毒」の混じっていないお念仏と言えるのではないでしょうか。