念仏もうすところに 立ち上がっていく力が あたえられる(2020年カレンダーの8月)

生物には元々備わっている習性が多くあります。例えば多くの植物には光屈性と呼ばれる性質が備わっています。例えば窓際に植物を置いておくと、外に向かって成長するところを見たことがある方は多いと思います。このように光を求めて、その方向に成長する、このような性質が光屈性です。また、有名なことわざに「飛んで火に入る夏の虫」というものがあります。これは蠅や蛾に見られる性質から生まれたことわざで、このような虫たちは光に向かって飛ぶ習性があるためで光走性と呼ばれています。光屈性や光走性といった性質は元々生まれ持った性質で、特に学んだわけではないのに、生きるために自分で向うべき方向を分かっているのです。

親鸞聖人は高僧和讃の源信和尚の項で

 

煩悩にまなこさえぎられて

摂取の光明みざれども

大悲ものうきことなくて

つねにわが身をてらすなり

 

というご和讃を残されました。このご和讃では煩悩ばかり見ていて阿弥陀様の光が見えない私達でも、阿弥陀様はその救いの光を常に私達を照らし続けてくるという内容を書かれています。

植物や虫たちは生まれ持った性質で、本物の光を向いて進んで行きます。しかし私達人間は生まれ持った性質として、煩悩に向かって進んでしまうのです。正確にいえば成長していく過程でその煩悩というものを学んでしまうのでしょう。でも、その成長の過程で阿弥陀様のお救いがあるということを学び、気づく人々も多くいます。

 

今月の法語ですが「念仏もうすところに 立ち上がっていく力が あたえられる」という言葉で、西元宗助さんが残してくださいました。私達は煩悩に惑わされて一喜一憂しているときも、悩みに苦しみどうしたらいいかわからないときも阿弥陀様の光明は私達に向けられています。そのようなときにまず私達は阿弥陀様が光を向けてくださっていることに気づくことが第一でしょう。気づくことができれば、最初にお話した植物や虫のようにただただ進んでいけばよいのでしょう。そして阿弥陀様の光に向かって進んでいくその推進力となるのがお念仏となります。今月の法語にもあるように私達が何度倒れようとも、お念仏によって立ち上がることが出来ますし、その立ち上がって向う先は阿弥陀様のお救いになると思います。そうすれば現実世界でも再び歩き始めることもできると思います。