仏教では生老病死が四苦として挙げられます。この生きていることも苦しみ、老いることも苦しみ、病気になることも苦しみ、死ぬことも苦しみとしてこの四苦になっています。人はこれらの苦しみからなんとかして逃れたい、会いたくないと思います。これら四苦の中で生きることの苦しみ以外は、多くの人が想像できることでしょう。また生きることの苦しみも自殺してしまう人がいることを考えれば死ぬことよりも生きていることの方が辛いこともあるのでしょう。
しかし、ほとんどの人は「生きていること」に執着してしまうのです。大会で入賞した川柳に「三時間 待って病名 加齢です」「延命は 不要と書いて 医者通い」というものがあります。笑い話ですが確かなことでしょう。誰であっても老いにも、病気にも抵抗するのは同然です。これは病気になった本人以外の家族であっても同じように感じてしまいます。このように感じてしまうのは、その先にある「死」への漠然とした恐怖もあると思います。
ここで今月の法語カレンダーの言葉を紹介させていただきます。
信心あらんひと むなしく生死にとどまることなし
この言葉を解釈しようとすると大変難しいと思います。言葉のまま捉えれば「信心を持っている人は、生死に関して悩みを持つことはない」となりますが、それだけの意味ではないでしょう。信心の定義、生死の定義、【あらんひと】【とどまることなし】という言葉の捉え方など大変深く考えさせられる内容だと思います。
ただし信心を持つことの大切さを表しているのは間違いないでしょう。
わたしゃ 困ったことがある
胸に歓喜の あげたとき
これを書くこと できません
なむあみだぶつと 言うて書け
これは妙好人の浅原才一さんが残した言葉です。才一さんはご人身で阿弥陀様のご慈悲を感じたとき、つまり信心の欠片が見えたときにその嬉しさ、そのありがたさをなんとかして記録として残そうとしても、その信心の欠片はどう表現してよいかわからないこと偉大なものであったのでしょう。なので、ただただ「なむあみだぶつ」と書いてその信心の欠片を見失わないようにしたのではないかと思います。