人が何よりも執着せんとするものが自己である(2020年カレンダーの6月)

仏教用語には我執というものがあります。文字の通り自己への執着を表しています。執着という言葉を国語辞典で調べると「一つのことに心をとらわれて、そこから離れられないこと。」と出てきます。人が執着するものといえばお金や地位などといった自分を飾り立てるものや、お酒やギャンブルといった自身の快楽を得るためのもの、もしくは元の恋人といった自分の元から去ってしまったものなど様々なものがあります。このように執着すればするほど思い込みが激しくなって他の道が見えなくなってしまいます。この執着の度合いは人それぞれであって、度が過ぎれば異常に思えますが、どんな人でもこのような執着は少なからずは持っているものでしょう。

「人が何よりも執着せんとするものが自己である」毎田周一さんの言葉でこれが今月の法語になります。

お釈迦様も元々は裕福な王子として生まれ育ちましたが、お金や地位を捨てて出家しました。また、その時代は宗教者はお酒を禁じられていたり、妻子を持つことも出来ませんでした。やはり、このようなもの昔から悟りを開くためには邪魔になるという認識であったし、間違ってもいないでしょう。このようなものを捨てて、最後に問答すべきなのは自分自身ということになるでしょう。

その問答の結果見えてきたのがやはり「自分への可愛さ、自信」となってくるのではないかということから、「人が何よりも執着せんとするものが自己である」という言葉なのかと思います。

浄土和讃の一つを紹介したいと思います。

 

安楽国を願うひと

正定聚(しょうじょうじゆ)にこそ住するなり

邪定不正聚(じゃじょうふじょうゆ)くにになし

諸仏讃嘆したまえり

 

このご和讃では阿弥陀様のお救いを信じるものは必ず、お浄土に生まれることができる。自力で浄土に生まれることは出来ない。なので阿弥陀様をただただ信じるべきでしょう。という内容で自力での悟りの難しさを説いています。ある意味では自力で悟りを開こうとすることもまた「自己への執着」と言えるでしょう。なので、どこまで厳しい修行をしても「自己への執着」を捨て去ることは中々できないでしょうし、そんな私達だからこそ親鸞聖人の示してくださった阿弥陀様のお救い、他力を信じることが大切になるでしょう。