「信心」というは すなわち本願力回向の信心なり(10月の法語カレンダー)

「信心」というは すなわち本願力回向の信心なり
浄土真宗では信心という言葉がよく出てきますし、聞法の機会に多く参加される方は信心がどれほど大切なものであるか分かっておられると思います。今月の法語カレンダーでは改めて信心のお話が出てきますし、本願力回向の信心であると強調されています。このことは阿弥陀様の力、他力を信じようとしていること自体が自力に頼っていることだからです。本願力回向の信心、これら目指すところですがこの信心は決して自力ではなく、この信心すらも阿弥陀様に与えてもらえるものです。
回向という言葉の意味だけでは「行いが回り向かう」という意味になります。浄土論という書物には往相回向と還相回向の二種類に回向は分けられると書かれています。往相回向は自身の善い行いによって他人と共々お浄土に向かう。還相回向は阿弥陀様のお力によってお浄土に向かう。と簡単に説明させていただきます。親鸞聖人はこの往相回向自体を否定しているのではなく、この往相回向も阿弥陀様のお力だと残されました。
お話しは変わりますが、私は普段獣医師としても働いています。犬と猫の考え方の違いを聞いて確かにそうだと感じたものがあったので紹介します。犬「彼らは餌をくれて、撫でて愛してくれる。彼らは神に違いない」猫「彼らは餌をくれて、撫でて愛してくれる。私は神に違いない」どうでしょうか。犬と猫両方飼ったことがある方はうんうんと思っていただけるのではないでしょうか。ワンちゃんと遊んでいて人間のほうが「遊んでくれてありがとう」と思っていてもワンちゃんも「遊んでくれてありがとう」と思っていることでしょうし、猫ちゃんと遊んでいて人間のほうが「遊んであげた」と思っていても猫ちゃんも「遊んであげた」と思っているでしょう。この逆もあり得ると思います。これは人間にも言えることで良かれと思ってやっていることでも本当に相手のためになっているか分かりませんし、それを良い行いだと私たちが勝手に決めているとも言えます。もちろん、良い行いをすることに意味がないわけではないですが、良い行いをしてやったと見返りを求める慢心にこれほど愚かなものはないでしょう。
なので今月の法語にもあるように他力の信心を得ることができたと思っていても、ほとんどの場合は慢心に終わってしますことでしょう。なので、阿弥陀様のお救いに会うためにも本願力回向の信心こそを私達は求めなければなりません。そのためにお念仏や聞法の機会を増やし、仏法への理解を深めることも大切になってくるのでしょう。