1.〜縁起〜 導入編 いのちと縁起について

今回からは「仏教における生命感」ということでお話していきたいと思います。仏教と「いのち」ということは昔からよく話されてきました。仏教と「いのち」のお話をするときにはやはり縁起のことをお話しなければなりません。縁起というと一般的には縁起がいい、縁起が悪いといった使い方をすることが多いです。この使い方は日本で独自に生まれた言葉の使い方です。もともと縁起は仏教に由来する言葉で因縁生起という言葉から縁起が生まれたと言われています。因縁生起は「縁を因として、生まれ起こる」という意味になります。これは仏教の最も根本的で大事な考え方で、仏教の真理といっていいでしょう。この因縁生起は〈此有るが故に彼有り。此無きが故に彼無し〉あるいは〈此生ずるが故に彼生ず。此滅するが故に彼滅す〉という言葉で表されることが多いです。縁起というのは物事のつながりを表しています。しかし、ただのつながりではなく原因と発生に必ずの順序関係はなく、2つが関連しあっていることが重要です。原因があったから発生したというよりも、原因と発生は互いに関連しあっているということです。よく卵が先か、鶏が先かという哲学的な議論がなされることがあります。生物学の進化論でこの議論について考えてみると、卵が先となります。これは遺伝情報的に先に形成されるのは卵だからです。メスの鶏の体内にオスの鶏の精子が入り、卵子と受精します。この受精した卵子の周りに黄身、白身、卵の殻と覆われて卵が完成します。つまり、両親の遺伝情報が一つになり、新たな遺伝情報が完成するのは卵が先だからです。神学的な考え方のうちキリスト教学で言えば創世記第一章には卵より鶏が先というふうに思われるような記述があります。しかしこのような議論も縁起の観点から見えればこの議論自体に意味はないと言えます。卵を生む親鳥がいて初めて卵は生まれますし、卵から雛が成長したからこそ親鳥が生まれます。必ずの順序関係は必要ありません。あるひととき、一瞬だけ見れば卵であるし、雛であるし、親鳥であります。ここまで話してきた通り仏教の生命感を考えるには縁起は不可欠になります