正信偈のお話 ~18~ (至心信楽願為因)

落ちこぼれはどこにもいない

至 心 信 楽 願 為 因

外国の人が日本のスーパーに来ると野菜がまるで玩具のようだと言うそうです。これはどの野菜も型で押したように同じ大きさ、形のものばかり並んでいることが理由だそうです。実際に日本の規格外野菜の廃棄数は諸外国に比べても多いそうで日本人の気質によるものなのでしょう。最近でこそ道の駅の直売所などや農家さんからの通販などで購入することはできますが、それでも値段に差を付けます。どれも一生懸命育った野菜に形のよし悪しだけで、勝手に優越をつけている私たちなのです。でもそんな私たちでも阿弥陀様の前ではどんな人でも救われるのです。

 

正信偈のお話 ~17~ (本願名号正定業)

行き先が決まると安心できる

本 願 名 号 正 定 業

何を選ぶにも迷ってしまいます。例えば平日のランチでもお店選びで悩み、ランチセット選びで悩みます。食事が運ばれてきてもどのメニューから食べようか悩みます。食事が運ばれてきてもどのメニューから食べようか悩みます。しかし、小さな決断でも決まってしまうと安心するものです。また決まるまでの悩みが多ければ多いほどその安心感はひとしおなのでしょう。そしてお浄土への道も迷いの連続なのです。真宗門徒からすればその道は阿弥陀様が導いてくださる道で、その道を歩くことを私達が決まられたらどれほど安心できるでしょうか。

 

正信偈のお話 ~16~ (一切群生蒙光照)

だれでも主役になれる

一 切 群 生 蒙 光 照

ラーメンの具で人気ナンバーワンは何だと思いますか?とあるランキングでは味付け煮玉子だそうです。逆にラーメン店主が食べてほしい具ナンバーワンはチャーシューだそうです。しかし、この店主のランキングでは白票を入れた店主も多かったらしくその理由は「それぞれの具材に良さがあって、どの具もナンバーワンだと思っているから自分のラーメンに乗せる」だったそうです。確かに私達の口の中で味わっているその具材、スープ、麺それぞれが主役なのです。阿弥陀様の私達に向けてくださる優しさのスポットライトも同じく、平等ですし、もれなく主役にしてくれるのです。

 

正信偈のお話 ~15~ (超日月光照塵刹)

太陽や月を超えてどんな小さいものでも照らし出す
超 日 月 光 照 塵 刹
今の時代は電気もあるので、人間にとって太陽光や月明りの有り難さは小さくなっているかもしれません。でも、動物にとってはこれらは昔から変わらず大切なものです。植物などは太陽の光で成長しますし、月の明かりを頼りにするウミガメなどもいます。そして、お経が書かれた時代の人間にとってもその光はとても大切だったのでしょう。でも便利な世界で生きている私たちはついついその有難みを忘れてしまうのです。そしてお日様やお月様の光でも照らせないものでも、照らし出してくださるのが阿弥陀様なのです。これこそ忘れてはいけないことなのにすぐに忘れてしまうのです。

 

正信偈のお話 ~14~ (不断難思無称光)

言葉にできない絶景は見に行くしかない
不 断 難 思 無 称 光
日本にも絶景と言われるものは多くあります。見たことがある方も多いかもしれませんが、北海道の「雲海テラス」は絶景だと思います。私が訪れた時は運良く、流れ落ちる雲海を見ることができて、事前に動画を見ていてもやはり目の前にすると言葉に出来ない風景でした。観光地で特に世界遺産などを訪れる時は、事前に知識や写真を見すぎて、目の前の風景を素直に見れないこともあります。お経についても知識も大切ですが、最後は阿弥陀様の救いに実際に出会うことが私達の願いであります。難しいですが頭でっかちにならず、素直に生きたいものです。

 

正信偈のお話 ~13~ (清浄歓喜智慧光)

わかっちゃいるけどやめられない
清 浄 歓 喜 智 慧 光
仏教では三毒として欲深いこと、怒ること、無知なことがあります。これらは私達の根本的なもので取り除く難しさは相当なものです。よく百害あって一利なしと言われるタバコやお酒などもなかなか止めれないのも、やはり習慣になっているからだと思います。父の日に日本酒をもらった人の話ですが、日本酒に「いつもありがとう。お酒は程々に飲みましょう」とメッセージが添えてあったそうです。このお父さんは自分がお酒の飲みすぎを子供に心配させていたことを反省し、子供の優しさに感動もしたのです。三毒も愚かさを悲しむより、気づいたことに喜ぶできでしょう。

 

正信偈のお話 ~12~ (無碍無対光炎王)

マイナーだっていいじゃない

無 碍 無 対 光 炎 王

コーラが人気でペプシコーラ好きは少数派のようです。あるペプシコーラを売らなくなったスーパーに寄せられた意見で「大好きな・コーラがなくなってしまって残念です。売れないのは分かってますがお店に置いてほしです」というのがあって、お店の回答は「申し訳有りませんでした。大好きなお客がいることに気づきませんでした。再入荷します」でした。そして次の週にはお店に並んでいたそうです。私達もメジャーな、本流な方法ではお浄土にはたどり着けないかもしれません。でも要望があればマイナーな私達でも阿弥陀様は救ってくださるのです。

正信偈のお話 ~11~ (普放無量無辺光)

どんなところでも、限りなく

普 放 無 量 無 辺 光

「奪い合うと足りない。分け合うと余る」という有名な相田みつをさんの言葉があります。ある社会実験で10人の子供を教室に集めてリンゴを5個与えました。すると想像通り奪い合いになりました。しかし、5個のリンゴをそれぞれ10等分し与えると、一切れか二切れしか食べずにたくさん余りました。これは大人になっても変わらず自分の必要以上に物を欲しがり、抱え込みます。他に必要な人が多くいるのに。そんな私達でも阿弥陀様の救いを奪い合う必要はありません。阿弥陀様の救いの力はどんなところでも限りないのですから。

 

 

 

 

正信偈のお話 ~10~ (重誓名声聞十方)

ゴールを明確にする

重 誓 名 声 聞 十 方

「目的を見つけよう。手段は後からついて来る。」これはマハトマ・ガンジーが残した名言です。毎日同じことの繰り返しなのに目的なんて、、、と思う方もいるかも知れません。でも毎日小さな目的を達成するため生きているのです。例えば「お腹が空いたから空腹を満たすために食事を作ろう。」といった具合です。しかし、目的が大きくなればなるほど、何をしていいか分からなくなってしまうこともあります。阿弥陀様は私たちを必ず救うという目的のために、自身のお名前があらゆる所で聞けるようになるという目標を作られたのでしょう。

 

 

正信偈のお話 ~9~ (五劫思惟之摂受)

他人のために自分の時間を使える人になる

五 劫 思 惟 之 摂 受

阿弥陀様は私達を救う方法をとても長い時間考えてくださいました。子供の頃は素直に友達が喜ぶ顔が見たくて、自分の時間を使っていたのではないでしょうか。大人になればなるほど他人への親切も見返りを求めるようになってしまいます。仏教では「雑毒の善」と言いますが、善意にもつい雑念が混じってしまうのです。このような雑毒はないに越したことはないですが、私達にこれを消し去ることは不可能なのでしょう。このことが分かれば分かるほど私達のために頑張ってくださる阿弥陀様の凄さが分かってきます。