正信偈のお話 ~38~ (聞信如来弘誓願)

【素直に聞いて、素直に信じる。】
聞信如来弘誓願
初めての映画を見るときに、その顛末を予想しながら見ることもあると思いますし、俳優さんの演技力に評価してみたり、カメラアングルに感心したりといった楽しみ方もあると思いますが、時には何も考えずに素直に映画を見ることも大切なのではないでしょうか。いろいろ考えながら見ることで満足するのは、私たちの自己満足なのかもしれません。おそらく映画を作っている人たちも一般の私たちには「素直に」見てほしいと思っているのではないでしょうか。阿弥陀様も、最終的には「素直に」信じてもらうことを望んでいるんだと思います。そして素直になるための読経であり聞法ではないでしょうか。

正信偈のお話 ~37~ (一切善悪凡夫人)

【今、この時、みな平等。】
一切善悪凡夫人
温泉などで湯船に入ってしまえば、本当に親しい中であることから「裸の付き合い」と言ったりします。落ち武者でも農民でもお殿様でも武器も持たず、服も着ず、湯船に入ってしまえば皆、平等なのでしょう。それなのに私たちもついつい、身なりや肩書に気を取られて、振る舞いをかえてしまうのです。当たり前ですが阿弥陀様は、現在の肩書などで区別することはしませんし、過去にどんな道を歩んできても、私たちを等しく救ってくださるのです。所説ありますが、親鸞聖人ご自身も弟子は取らなかったとしています。これは先生と生徒の関係ではあっても阿弥陀様の前では平等であると考えられたからではないでしょうか。

正信偈のお話 ~35~ (獲信見敬大慶喜)

【無意識な行動に本音が出る】
獲信見敬大慶喜
ミラーリング効果というのを聞いたことがありますか。憧れや尊敬の対象を無意識に真似てしまうことを言うそうです。子供が親の癖などを真似てしまうのもこれなんでしょう。私たち日本人は自分の信仰以外でも寺社仏閣に入ると無意識に手を合わせていたりするものです。そして、真宗門徒の私たちであればたとえ阿弥陀様を目の前にしなくてもフッとしたとき、無意識に「南無阿弥陀仏」のお念仏が出てくるときは大いに喜んで良いでしょうし、きっと阿弥陀様も喜んでくださると思います。実際に私たちも自分の子供が自分と同じような癖を持っているとなぜが嬉しいものなのですから。

正信偈のお話 ~34~ (雲霧之下明無闇)

【曇りでも、夜より明るい】
雲霧之下明無闇
明るさを表す単位でルクスというものがあります。明るいオフィスの照明は1000ルクス、そして晴れている日の屋外は100,000ルクスと言われています。では雨の日の屋外はどれくらいだと思いますか。実は5000ルクスもあるそうなので、明るいオフィスの5倍も明るいのです。暗いと思っていた雨の日でも、これほど明るいのお日様の光がとても強いからに他なりません。私たちの心の中もお日様さえあれば、雲や雨で暗くなることはあっても、決して真っ暗になることはないのです。そしてどんな人の、どんな時でもお日様になってくださるのが阿弥陀様なのです。

正信偈のお話 ~32~ (譬如日光覆雲霧)

今日は天気が悪いみたいですね。それ本当?
【譬如日光覆雲霧】
世間話でよく出るのは天気の話だと思います。よくいい天気というと晴れている天気のこというと思いますが、夏になると暑いとか水不足とか雨を欲しがります。どうにもならない天気に対してその時の都合で身勝手なことを言うのです。天気をコントロールする、なんて話はSFの世界のように思いますが、真剣に研究している研究者もいます。何とかしたいと思うのは当然のことかもしれません。私たちの心の中も綺麗な青空の時もあれば、雲が立ち込めたり、暴風雨になったりするのです。これは私たちが生きている以上仕方ないこともかもしれません。無理にコントロールしようとしなくても、雨には雨の良さがあるはずなのです。

 

正信偈のお話 ~31~ (常覆真実信心天)

【大切にしまったのに、見つからない】
常覆真実信心天
この前まであったものが見つからないということは日常茶飯事ではないでしょうか。探し物のコツは「〇〇の上」「〇〇の下」「〇〇の中」で上中下だそうです。そして、気持ちを落ち着けること、一度探したところも探すことも大事だそうです。大切なものだからと置いてあっても、ついつい忙しかったりすると上に物をおいてしまったり、イライラしていると普段決めている場所に片づけなかったりします。また戸棚の奥に大切にしまい込んでも今度はしまったことを忘れてしまいます。お念仏でも阿弥陀様によって私たちの心は晴れやかになっているはずなのに、私たちはすぐにその上から余計なものを被せてしまうのです。

正信偈のお話 ~31~ (貪愛瞋憎之雲霧)


【むさぼり、にくしみ、いくらでも出てくる】
貪愛瞋憎之雲霧
私たちの欲しがる心は底知れないものです。私がこの前、牛丼屋さんに行った時でも、入る直前は「普通盛りの牛丼」でいいやと思っていたのに、大盛り無料のキャンペーンに目が行き、セットメニューのお得さに気づき、さらに生卵サービスの携帯クーポンを発見してしまいました。そして、私は立派な定食を食べていました。そして食べた後にもスマホでSNSを見て、他の人が更に美味しそうな高級な牛丼を食べているのを羨ましく思いました。「足るを知る者は富む」が全く出来ていない、そんな愚かなことを一杯の牛丼でも気づかせてもらいました。

正信偈のお話 ~30~ (已能雖破無明闇)

【終わったことを気にしてしまう】
已能雖破無明闇
昔から「済んだことは水に流す」「後ぐされなく」といいますが、このように言われるのは私たちは終わったことをいつまでも気にしてしまうからでしょう。自分がこうしたら良かったのかと後悔することもありますし、相手はまだ許してくれていないと不安になったり、相手に対してもイライラが忘れられなかったりするのです。これは良くも悪くも私たちが賢くなってしまったからではないでしょうか。幼稚園児は「大嫌い」と言って取っ組み合いの喧嘩をしても、次の日には仲良く遊んでいるものです。そこには相手への無垢な「信頼」があるからそうできるのだと思うので大人になっても素直でいたいものです。

正信偈のお話 ~29~ (摂取心光常照護)

【「助けて」と言える人がいるだけで心強い。】
摂取心光常照護
「親切」という漢字に疑問をもった方も多いのではないでしょうか。諸説あるようですが、私は「心切」の漢字の当て字の意味が好きです。日本人は「助けて」というのが苦手な国民らしいです。困っている人には無言で気づいて手助けするといった「親切」の文化があるため、自分から助けてとは言いにくいのかしれません。そんな「親切」も人間関係が希薄になってしまった現代では上手く機能していないのでしょう。そんな今だからこそ「助けて」と言えることは自分のためになるのでしょう。そして助けてもらったら今度、相手が困っていたら助けてあげたらいいのですから。

正信偈のお話 ~28~ (如衆水入海一味)

【どの国に生まれても、地球人】
如衆水入海一味
防災用品に緊急用ろ過装置というものがあります。泥水でもきちんと飲水に変えてしまうスグレモノなのですが、この水を飲むのに抵抗がある人がほとんどではないでしょうか。例えばどんな川の水でも結局は海にたどり着き、塩味になります。キレイな清流でも汚れたドブ川でも最後は混ざりますし、氷河生まれの水も、アマゾン川生まれの水も違いは無くなってしまうのです。私達人間もどこ国出身でも学名ホモ・サピエンスという動物であることに違いはないのです。なのにろ過装置の水のようにちょっとした違いを見つけ出し、それが気になって仕方がない、そんな私達なのです。