いだかれてありとも知らずおろかにもわれ反抗す大いなるみ手に(2020年カレンダーの5月)

今日はまず川柳を紹介したいと思います。最初の川柳は

「お節介したくなるのが親心」

子供の成長のためを思うと無理に手伝ったりしない方がいいのは、親ならみな分かっていると思います。それでも困っている子供を見るとついついお節介をしてしまうのです。

次の川柳は

「娘みて遺伝の怖さ思い知る」

この川柳では遺伝の怖さと書いていて、自分の遺伝子が子供に遺伝すること、似ていることを悲観しているように思えます。でも、本当は自分自身に似ていることに喜びを感じているのでしょう。

どちらの川柳も親が子供を思うその気持ちはただただ単純な愛の気持ちとして表現されています。

真宗では阿弥陀様のことをよく「親さま」といいます。これは阿弥陀様が私達を思う気持ちは親心に似ているからでしょう。阿弥陀様は摂取不捨のお誓いを立てて菩薩様となられました。

十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし

摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる

このご和讃は浄土和讃の一首で、阿弥陀様はこの世界に住むすべての人を救い取る、そのような阿弥陀様のお力を親鸞聖人はこのご和讃に残されました。

摂取不捨の言葉は「救いとる」ことだけではなく、「見捨てない」ことも含まれています。

子供が美男美女に生まれなくても、反抗期を迎えても、結婚して別の家庭を持っても、子供というだけで可愛いと思ってしまうのが親なのです。

今月の言葉ですが九條武子さんの

いだかれてありとも知らずおろかにもわれ反抗す大いなるみ手に  

という言葉です。

九條さんは親心に対する子供の気持ちをこのように残されました。阿弥陀様は摂取不捨の大慈悲の心を常に私達に向けているのに、私達はそのお心に気づかない、気づいてもなお抗ってしまうのです。それでもやはり阿弥陀様は私達を救おうと救おうとしてもらえるのです。まさに現実世界の親心とそっくりだと思います。「親孝行 したい時に 親はなし」という有名な言葉もありますが、現実世界ではその親心に気づいて、報いようと思ってもそれに気づけるときにはもう亡くってしまっている。もしくは亡くってしまったからこそ気づくということを表しています。でも、阿弥陀様はいなくなってしまうということはないので、阿弥陀様の親心に気づくことに遅すぎるということはないのでしょう。そして、その阿弥陀様のお救いに気づいたときのお返しは「なもあみだぶつ」のお念仏なのです。

 

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