お念仏というのはつまり自分が自分に対話する道(2020年カレンダーの4月)

お念仏というのはつまり自分が自分に対話する道

  曽我量深

今月の法語ですがお念仏というのはつまり自分が自分に対話する道という曽我量深さんの言葉です。

お念仏というと「なまんだんぶ」という称名念仏が一般的です。漢字にすると「南無阿弥陀仏」となります。南無はサンスクリット語のナマスが由来で日本語にすると「帰依します」と意味になります。そして、その後に阿弥陀仏と続きますので、「なまんだんぶ」で阿弥陀様への帰依の気持ちを端的に表しています。

今月の法語カレンダーの言葉ですが曽我量深さんの「お念仏というのはつまり自分が自分に対話する道」という言葉です。お念仏は私達の阿弥陀様への気持ちを口に出して唱えているのに、なぜ自分自身の話になるのでしょうか。

清浄光明ならびなし
遇斯光のゆえなれば
一切の業繋ものぞこりぬ
畢竟依(ひきょうえ)を帰命せよ

これは浄土和讃のひとつの和讃ですが、阿弥陀様のお力を光で表していて、その力の偉大さ、そして私達にとってとても頼りになるということが表されていて、最後に「畢竟依を帰命せよ」と結んでいます。畢竟依とは私たちの究極の、拠り所であるということです。阿弥陀様は究極の拠り所にして生きていくことはこれほど心強いものはないでしょう。しかし、究極の拠り所とすることは大変難しいものだと思います。私達は生活の中で頼りにするのは人間やお金などわかりやすいものにしたくなります。今月の法語を残してくださった曽我量深さんの残した言葉に「あてにならぬことをあてにしているからふらふらである」というものもあります。人間やお金を頼りにするのは簡単なことですが、人間の気持ちはコロコロと変わりますし、お金も右から左に流れてしまえばなくなってしまいます。つまり、頼りにするのも簡単だけれども、私達から離れていくのも簡単なのです。

しかし、いくら説明を受けても人生のすべてで阿弥陀様を頼りにするのは無理かもしれません。それはお経の教えの理解が出来ていないとか阿弥陀様を信じる力が足りていないからということも理由になるかもしれません。そして何よりも自分自身のことが分かっていないから阿弥陀様の救いを信じきれないのでしょう。

「自分で見えないのは背中と欠点である」という言葉があるように、自分のだめなところをハッキリと理解している人はなかなかいないでしょう。また、自分では欠点と思っていても、他人にそれを指摘されるとイラッとしてしまいます。これはその欠点も含めて自分であることに納得がいっていないからでしょう。

なので、お念仏をして阿弥陀様を頼りにするということは私達自身で自分のことをより深く理解することが第一歩であり、探求していくべきことになると思います。

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