生のみが我らにあらず死もまた我らなり(2020年カレンダーの2月)

まずはご和讃の紹介をさせていただきたいと思います。

五濁悪世のわれらこそ
金剛の信心ばかりにて
ながく生死をすてはてて
自然の浄土にいたるなれ

浄土高僧和讃の中で善導大師さんを讃えたご和讃の一つです。この末法の世界にいる私達は、阿弥陀様への信心によって、生死の迷いの世界から真の悟りの世界へと導かれるといった内容です。親鸞聖人が生きていた時代はまさに末法の世界でした。五濁は人間が出会うであろう5つの汚れを表しています。「劫濁こうじょく」「見濁けんじょく」「煩悩濁ぼんのうじょく」「衆生濁しゅじょうじょく」「命濁みょうじょく」がその5つの汚れです。今日はその中で「劫濁こうじょく」についてお話したいと思います。「劫濁こうじょく」は飢饉・疫病・争乱などの社会悪が起こることをいいます。末法の世の中はこの「劫濁こうじょく」の時代と言えます。社会の情勢が不安定になると人のこころはどんどん荒んでいきます。

中国の古いことわざで「墨に近づけば必ず黒くなり、朱に近づけば必ず赤くなる(近墨必緇、近朱必赤)」というものがあります。

これは黒色や赤色といった強い色に近づくと他の色は簡単に飲み込まれてしますという意味で、人間関係や生活環境でも同様です。良い面や悪い面のどちらでも人は周りの環境で簡単に変わってしまいます。

それが末法の世で「劫濁こうじょく」の時代であれば、人々の心は悪い方へ悪い方へ変わっていってします。身近な人の死が、とてもありふれた時代で、いつ自分の肉親も死んでしますかもしれない。また明日には自分自身も死んでしまうかもしれないそんな時代です。そんな環境では人はどんなことをしても生き抜こう、死にたくないとより強く感じてしまうものです。そのような心があって当たり前です。

今月の法語ですが、

生のみが我らにあらず死もまた我らなり

  清沢満之

と残されました。生と死は本来は表裏一体のはずなのに、死を忌み嫌い遠ざけようとしてしまいます。本来仏教では生老病死が四苦として挙げられていて、生きていることも苦しみです。現代では親鸞聖人の生きた末法の世界とは違い、死が身近に感じることができないそのような世の中です。情報が世界に溢れ、すぐに答えがさがせてしまう。同じような答えが返ってくる、そのような世界ではないでしょうか。生きる苦しみも死ぬ苦しみも千差万別のはずなのに同じ答えでは対応しきれないでしょう。生きていることが苦しみで自分に迷ってしまい自分自身で命を断ってしまうそのような人も現れてしまいます。今月の法語は自分自身の中に置き換えて、自分でその答えを考えてみる、そのような機会になるのではないでしょうか。

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