仏光照曜最第一  光炎王仏となづけたり 三途の国闇ひらくなり 大応供を帰命せよ

私たちは喉が渇けば当たり前のように水を飲みます。そして飲んだ水は汗やおしっことなって体の外に出て行きます。するとまた喉が渇いて水を飲みます。人間は五日間、水を飲まないと死んでしまうといいますので、昔は水を手に入れるために国と国が戦争をしたこともあります。動物の中にはほとんど水を飲まない動物もいるそうですが、それは食べ物から水分を取れるからということらしいです。生き物の中でもっとも根本的な欲望は喉の渇きだと言われています。ある末期がんの患者さんの残されたご家族が読んだ詩で「欲望の果てに求めるただの水」というものがあります。元気な間はお金や地位をあれほど求めていたのに最後に求めたのは水道から出るたった一杯の水だったため、とても印象に残っていたそうです。
ここで今日のご和讃を紹介させていただきます。

仏光照曜最第一 光炎王仏となづけたり
三途の国闇ひらくなり 大応供を帰命せよ

阿弥陀仏の光の輝きは最も優れたものである。それゆえに、光炎王仏とも名づけられる。地獄・餓鬼・畜生という迷いの暗黒をも取り除かれて、光明を得ることが出来る。
すべての衆生が全身全霊を捧げるにふさわしい阿弥陀仏をひたすら頼みとしなさい。
このように訳せるかと思います。地獄・餓鬼・畜生の三悪道とどのように向き合い、対処するかということは仏教が始まった2500年ほど前からの問題でした。かつてはお釈迦様も断食をはじめとした苦行でその心の迷いを取り除こうとしました。しかし、ただただ苦行を続けるだけでは悟りを開くことができないことを6年間の苦行を通じて理解されました。また、親鸞聖人も比叡山での20年間の修行を通して苦行ではご自身の迷いの霧は晴れませんでした。
断食など苦行で悟りを開こうと思うのは、仏教以外の世界の様々な宗教で見られます。もちろんその苦行で悟りを開くことが出来れば構いません(自力での悟り)。私たちは水を欲するように、様々な欲望、迷いが次々に湧いて出てきます。私たち凡夫は自分では対処できません。なので阿弥陀様にただただすがる、頼りにするしかないのでしょう(他力での悟り)。